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俺とオマエのFIGHT CLUB

知って語るほどモテない世界史/“赤き血は未だ滅びず” ポーランド(Polską🇵🇱)の歴史

今日は、東ヨーロッパの中堅国家・ポーランド(Polską🇵🇱)を中心に、それを取り巻く世界史を概観してみる。ロシアW杯で日本代表と対戦することも決まったし、いまアツイよね(?)。

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◾︎“ポルスカ”、建国。

東ヨーロッパのスラブ系大国。9世紀、ポラニェ族を中心にスラブ人がまとまってポルスカ王国🇵🇱、英語名でポーランドと呼ばれる国を建てた(ピヤスト朝)。

他のスラヴ系国家とは違ってギリシャ正教ではなくカトリックを受け容れたことで、東ヨーロッパの中では異色の立ち位置に立つ国で、西ヨーロッパ世界に所属する。域内にはポーランド人の他に、隣国の神聖ローマ帝国からやってきたドイツ人が多く移住(東方植民)していた。 

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◾︎モンゴル軍、ポーランド侵攻

11世紀初め、モンゴル🇲🇳が東アジアで勢力を拡大させる。チンギス=ハンの孫の将軍バトゥはアジア横断の大遠征を始め、東ヨーロッパ世界を滅多打ちにすることになる。

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まずは北からウラル山脈を超えてブルガリア(ヴォルガ・ブルガール王国🇧🇬)を制服、周辺にいた遊牧民を吸収しながら15万の大軍を構成してロシア🇷🇺に侵攻。モスクワ、キエフなどを陥落させ、キエフ公国(現在のロシア🇷🇺)を滅ぼす。

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モンゴル軍の圧倒的な機動力は、敵軍を各個撃破(戦争の基本。戦力の集中投下)することが可能。欧州諸国はどこも鈍重な兵を広く薄く並べて守っていたので、歯が立たなかった。

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バトゥのモンゴル軍🇲🇳はそこから南北二手に分かれ、南軍はハンガリー王国🇭🇺を撃破し、首都ブタペストを破壊。

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一方、北軍ポーランド🇵🇱に向かった。それを聞きつけたポーランド国王は当時ヨーロッパ最強の呼び声高いドイツ騎士団に協力を求め、結果的にポーランド王国ドイツ騎士団神聖ローマ帝国テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団から構成されたヨーロッパ連合が作られる。

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バトゥ率いるモンゴル騎馬軍団とヨーロッパが誇る最強騎士軍団がワールシュタットの戦い(1241)で激突。

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モンゴル軍は煙幕による各個分断、訓練された軽装騎兵による陽動など中国を打ち破ったハイレベルな騎馬戦術をそのまま展開し、ヨーロッパサイドはなすすべなくフルボッコに遭った。

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モンゴル軍は容赦なく、敗走するヨーロッパ兵を一人一人追い詰め、串刺しにして惨殺した。

民は恐怖のどん底へと堕ち、ワールシュタット(「死体の山」の意味)という単語は後世まで長く恐れられた。

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ヨーロッパ連合軍を壊滅させた後、すぐにモンゴル軍は神聖ローマ帝国🇩🇪の都ウィーンにまで迫ったが、

モンゴル帝国二代目ハン(皇帝)であるオゴタイ=ハンがタイミング良く死んだことで、バトゥは後継争いの会議に出るため引き返す。ポーランドはモンゴルの支配を受けることはなく、急死に一生を得た。

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◾︎カジミェシュ大王の時代

14世紀、ポーランド王国は領土を広げ、カジミェシュ3世(「大王(Wielki)」の名で呼ばれた)の時代に全盛期を迎えた。クラクフ大学(現ヤギェウォ大)を創設するなど文化面も充実。ポーランド人学者としてコペルニクスなどを輩出した。

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大王の死後、膨張するドイツ騎士団領🇩🇪に対抗するため、ポーランド国王ジグムント2世はリトアニア大公国との王室の合同の合意(ルブリン合同)を取り付け、リトアニア=ポーランド王国🇵🇱🇱🇹となる。

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2度の戦争でドイツ騎士団を撃破し、領土を拡大、東ヨーロッパNo.1の大国にまで登りつめる。破れたドイツ騎士団領は「プロイセン公国🇩🇪」となり、ポーランド服従した。

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◾︎選挙王政の開始でグダグダ

16世紀後半、王室の血が断絶したことポーランドは有力貴族(シュラフタ)が持ち回りで国王を務めるという、貴族投票による"選挙王政を開始。

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貴族たちは当選を目指し、それぞれ神聖ローマ、スウェーデン、フランス、ロシアなどの諸外国と陰で繋がって支援を受けていたため、ポーランド列強の内政干渉によって次第に政治体制が崩壊し、弱体化の一途を辿ることとなった。

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地主貴族(シュラフタ)はともに平等とされ、誰もが王位へ立候補することができる。ポーランド特有の貴族民主主義は「黄金の自由」と称されたが、王権の弱体化により、国家の没落を招いた。

 

 

 

 

◾︎「大洪水時代(Potop szwedzki)」とかいう天災

1648年、ポーランド王国に属するウクライナ地方🇺🇦コサック(ロシア人農民)がポーランド貴族の支配に対して反乱を起こした。コサックたちはロシア王国🇷🇺に支援を求め、応じたロシア軍がポーランドに侵攻し、それに乗じるようにワンチャン狙いのスウェーデン帝国🇸🇪も軍を率いていきなりポーランドに攻め込んでくるというポーランド史上の大事件、「大洪水時代(Potop szwedzki)」(1655年 – 1660年)を迎える。

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ポーランド国王は抗戦しようとするが、しょせん選挙で選ばれただけの一諸侯に過ぎず、権威も権力も無かった。隣国オーストリア絶対王政体制による華やかな宮殿生活に日頃から憧れていた貴族たちは、「スウェーデン国王カール10世のほうが、国王にふさわしいんじゃね」というような売国的態度で、ポーランド国王に協力することなく、自ら国を明け渡した。

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*カール10世🇸🇪

 

しかし、ワルシャワに入城したスウェーデン軍は激しい略奪を行い、国内経済は完全に破壊され、戦乱とペストの流行で人口も大きく減少。

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ロシアにもウクライナを奪われ、まるでノアの大洪水のように、東ヨーロッパNo.1大国の栄華を全てさらっていってしまったことからこう呼称された。

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"大洪水時代"を経てポーランド国土は荒廃。国体は保持したものの見る影もないほど衰亡し、ポーランドの属国であったプロイセン🇩🇪(元・ドイツ騎士団領)もこのタイミングで独立した。

 

1683年にはオスマン帝国🇹🇷第二次ウィーン包囲に対して軍を派遣して神聖ローマ帝国🇩🇪の危機を救うなど、その後のポーランドは欧州戦線でも一定の存在感を発揮したものの、かつての大国ポジションに戻ることはもう二度と無かった。

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◾︎東欧・北欧のNo.1決定戦、“北方戦争(III wojna północna)

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オスマン帝国🇹🇷が神聖ローマ帝国🇩🇪に仕掛けた“ウィーン包囲”を撃退することに協力🤝していたポーランドの北方で、宿敵スウェーデン王国🇸🇪は着々と軍備を増強しており、バルト海を制圧する大国と化して周辺国を圧迫し続けていた。

そんなイケイケムードの中、スウェーデン国王カール11世が急死。新国王にはまだ14歳のカール12世が即位した。

 

これは千載一遇のチャンス。スウェーデンを潰して、バルト海に繋がる不凍港をゲットしようと考えたロシアのピョートル1世(のちにロシア帝国・初代皇帝を名乗る)🇷🇺は、スウェーデンに脅威を感じていたデンマーク🇩🇰ポーランド🇵🇱の2国を誘って秘密同盟を結成、スウェーデン包囲網を敷いた。

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1700年に北方戦争スウェーデン vs ロシア&デンマーク&ポーランドが勃発。

若きスウェーデン“流星王” カール12世🇸🇪(18) まさかの天才戦術家で、先進的な火力の扱いに優れた軍隊を、勇気ある陣頭指揮で率いて瞬く間にデンマークに乗り込み、コペンハーゲンを陥落させる。

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*「北方流星王」の異名を持ち、ラインハルトのモデルになったカール12世🇸🇪

 

続いてロシア軍🇷🇺と激突し、戦いを幾度も圧倒して勝利を収めた。ポーランド🇵🇱にも侵攻して国王を退位させ、傀儡の君主を就けてスウェーデンの属国とした。ポーランドは各国の戦場と化して荒廃した。

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ロシア皇帝ピョートル1世🇷🇺は、一度は敗北を認めたもののリベンジマッチを計画。10年かかって軍隊と軍備を大幅に増強、最新ver.にアップデートし、スウェーデン第二次北方戦争を仕掛ける(1709)。スウェーデンの優位で進んだものの、北方戦争最大の合戦となったポルタヴァの戦いに勝利したことで一気に形勢逆転。

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20年にわたる大規模な戦争に勝利したロシアは、フィンランド🇫🇮で結ばれたニスタット和約(1721)において、スウェーデンが支配していたフィンランドの南部地域(@バルト海沿岸)を獲得。これによりロシア国家にとって念願の不凍港ゲット‼︎ *に成功し、これを祝ってその場所に新都サンクト=ペテルブルクを建設。

 

また、ピョートル1世は東欧&北欧におけるロシアの覇権の確立を祝って、ロシア元老院に命じて、[ローマ皇帝]の戴冠

 

 

*ロシアは国土の大半が北極圏やツンドラ地帯の国だ。イワン“雷帝” (1533〜1584, ロシア史上最大の暴君、英:“Ivan the Terrible”)の時代、ウクライナのコサック(ロシア人遊牧農民)たちが原住民から征服&強奪したシベリアの地を国土に組み入れたことで、

 

 

不凍港獲得のために

 

 

 

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*ヨーロッパへのアクセスが良好な場所にこのような壮麗な都を建設したことは、ロシアが“東方の辺境国家”から脱皮して、“西欧国家の装い”をして生まれ変わる事で、ヨーロッパの社交舞台へ一気に駆け上がっていくことを意味した。

 

 

 

田舎者国家であったロシア🇷🇺は、ピョートル大帝という好奇心旺盛で新しもの好きの指導者に導かれ、ヨーロッパに近い都でヨーロッパの都会文化をキラキラ吸収し(自国の国旗デザイン🇷🇺もオランダ🇳🇱*からパクるミーハーっぷり)、近代国家建設と、欧州列強クラブ入りを目指して以後、猛進する。

 

*17世紀のオランダ🇳🇱は、スペインから独立した際に受け継いだりブン盗ったりした世界中の植民地を運営し、また様々な貿易拠点(日本の出島など)を確保して、オランダ東インド会社による世界の貿易システム・商品市場の中核機能、かつアムステルダム銀行による世界の金融ネットワークの中心を担う巨大海上帝国として繁栄していた。そのため、ピョートルは生まれからずっと“覇権国家”かつ“世界の最先端テクノロジーが集まる場所”としてオランダに憧れを抱いていた。

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*サンクトペテルブルクにある世界三大美術館の一つ、エルミタージュ美術館

のちのエカチェリーナ2世(女帝)が国庫から莫大な額を投じてヨーロッパ中から収集・秘蔵した美術品コレクションがその始まりだが、背景にはロシアという田舎国家の劣等感ヨーロッパ都会文化への強い憧れがあった。

 

 

北方戦争によってロシアがバルト海制海権を完全に手中に収めたことで没落したスウェーデンに代わり、今度はロシアが北方の覇者として君臨し、以降、ポーランドに圧力をかけ続けていく。

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◾︎一方その頃、、、。
北方戦争でロシアとスウェーデンが東ヨーロッパの覇権を争っていた頃、
西ヨーロッパではスペイン継承戦争(1701〜1714年)という大戦争が延々と続いていた。

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この戦争の勃発は、あらかじめ予見されており、ヨーロッパ各国では今か今かと機が待たれていた。

スペイン王国ハプスブルク朝🇪🇸の最後の男児であった国王・カルロス2世は生まれつきーー王族間の多重近親婚の悪影響に他ならないがーー、超・病弱体質かつ重大な知的障害と咀嚼障害を患っており、さらには性的に不能(インポ)との噂も囁かれていたため、スペイン王家の血筋がもう何年も持たずに断絶することは、誰の目からしても火を見るより明らかだった。

 

Q.問題は、“太陽の沈まぬ国”とも呼ばれ、世界中に広大な領土を所有するスペイン帝国を、

いったい誰が引き継ぐか。

 

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*↑当時のスペイン帝国の領土。(ピンクオレンジの範囲)

南イタリア🇮🇹、南ネーデルラント🇧🇪(ベルギー)、メキシコ🇲🇽、西アメリカ(+カナダ)🇺🇸、フィリピン🇵🇭等を領有していた.

 

※注:ポルトガルの領土(1640年、ポルトガルはスペインとの同君連合を放棄して独立している)

 

ーー真っ先に名乗りを上げたのがルイ14世フランス王国だった。

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この時、ヨーロッパ最強の軍隊保有し、欧州で暴れまわっていたフランス王国🇫🇷・ブルボン朝太陽王ルイ14世は、スペイン王位が途絶えた機につけ込んで、スペイン王室と親戚関係にある自身の甥にスペイン帝国を継がせ、実質的にフランス=スペイン王国を建設することを画策していた。

 

これに対して「絶対アカン!!!」と抵抗したのが、当時の列強国のイギリス🇬🇧オランダ🇳🇱、そしてオーストリア🇦🇹(≒神聖ローマ皇帝)だった。

 

ここで、この戦争に関わりがある、それぞれの国の当時の歴史状況を整理しておく。

 

■当時のイギリス・・・イケイケ🤗

弱小国から一転、大国への道を歩む🇬🇧

・スペイン🇪🇸はエリザベス女王時代以来因縁の野郎。

ーーアルマダの海戦においてイギリスは海賊王ドレイクを総司令官に任命し、英国海軍&海賊船混成軍であの“無敵艦隊”を破るという大金星を一度は挙げたものの、その後スペインの逆襲に遭い、敗北している(1609)

 

・イギリス東インド会社、香辛料を取り扱えなかったのになぜか好調。

ーーせっかく社名に「東インド(=インドネシア🇮🇩!」と付けて、香辛料の大産地=東南アジアへ意気揚々と乗り出した(1601〜)のに、オランダにちょっとコワイやり方(1623)で脅され、イギリスは東南アジアの香辛料貿易から締め出されてしまった。

しかし、仕方なく向かったインド🇮🇳ムガル帝国に貿易許可をとって輸入し始めたキャラコ(綿=コットンのフワフワ布)*が、ヨーロッパ中で超大ヒット商品になってウハウハ。

さらには中国🇨🇳(清)からの仕入れルートを地道に強化していた「茶(tea) 」が母国で特大ブームを巻き起こし、それまでフィーバーしていたコーヒーを完全に駆逐。“アフターヌーンティー” の文化などが根付き、売れに売れまくった。

 

*インド産の質の高いキャラコ(綿=コットン☁️の布)がヨーロッパに大量に輸入されたことで、イギリスの主要産業かつ主要輸出品だった毛織物(羊毛🐏で織った布)がまったく売れなくなり、国内マニュファクチュア工場の経営者(ブルジョワジー)たちはブチギレ。

 

・フランスとただいま絶賛・第二次百年戦争中(1689 - 1815)

 

 

 

 

 

 

 

フランスのルイ14世フランスとスペインの合併を狙って起こした大戦争フランス&スペイン🇫🇷🇪🇸   VS  神聖ローマ帝国(オーストリア)&イギリス🇦🇹🇬🇧 の対立を主軸にして展開し、西ヨーロッパ諸国を真っ二つに分断して争われた。

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また、それに伴ってアメリカ大陸🇺🇸では、アン女王戦争という英仏の植民地戦争が勃発。英国植民地軍🇬🇧 VS フランス=インディアン連合軍🇫🇷という構図で、スペイン領カナダ🇪🇸を巡り争った。

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1714年、西ヨーロッパでの戦争、アメリカ植民地での戦争、ともにフランス側が敗れる形で決着。

ヨーロッパ大陸において横暴な覇権を唱えていたルイ14世フランス王国🇫🇷はその勢力を大きく抑制され、イギリスなどのその他欧州列強国とパワーをバランスさせる事になる。

 

また、神聖ローマ帝国(のちのオーストリア帝国🇦🇹)側について参戦したプロイセン公国🇩🇪(=かつてのドイツ騎士団領)は、神聖ローマ皇帝(=オーストリア皇帝)にその功を認められ「王国」に昇格、徐々に領土を拡大し、やがて台頭*しはじめる。

 

 

*■プロイセンの膨張とドイツ統一

▼18世紀当初のプロイセンの国土。

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くすんだ緑色の地域プロイセンポーランド🇵🇱と神聖ローマ帝国🇩🇪(赤線で囲まれた範囲)の2か国に跨って存在している

▼18世紀半ば:「王国」に昇格したことでイキがるプロイセン

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神聖ローマ帝国の皇帝権を握っているオーストリア🇦🇹(*オーストリアもドイツ人国家!)との戦争に勝ったり、ポーランド🇵🇱をカツアゲ(後述ーー「ポーランド分割」)したりしてドイツ人居住地域を吸収し、徐々に拡大。

▼19世紀半ば:ドイツ統一を達成したプロイセン。名称をドイツ帝国へ🇩🇪

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ビスマルク時代、ついに数多くの都市国家領邦国家(その数、およそ300!)に分断されていたドイツを一つの連邦国家としてまとめる事に成功。中央ヨーロッパにバラバラに離散していたドイツ民族の居住圏は一つの国家体制の元に統一された。バイエルン王国ザクセン王国など、うるせぇ奴らも

 

 

(*このドイツ民族を一つの国家の元に結集させよう!というナショナリズムが『ドイツ語が響く土地(ドイツ人が住む土地)はすべてドイツ』という国家イデオロギーパン=ゲルマン主義に繋がり、やがてWW2に至るまでドイツの「“取り戻す”ための侵攻」を正当化して推し進めた。ナチスドイツによるオーストリア(=ドイツ人国家)併合はもちろん、チェコスロバキアへのズデーテン地方(WW1でオーストリアからチェコに割譲されたドイツ人居住地域)要求も、そのイデオロギーの元に国民に支持された。ナチスドイツのポーランド侵攻も、WW1敗北でポーランドに奪われたプロイセンの発祥地」でもあるドイツ人居住地域を取り戻したい!というが背景にある。)

 

 

 * * * * * 

 

 

18世紀、北方戦争スペイン継承戦争終結を境に、ヨーロッパはイギリス🇬🇧・フランス🇫🇷・プロイセン🇩🇪・オーストリア🇦🇹・ロシア🇷🇺の勢力均衡による五大国体制の近代秩序が徐々に形成され始める。

 

その秩序の狭間でポーランドのような小国はつねに大国同士の食い物とされ、列強の圧力の板挟みの中で国体の保持が難しくなっていく。

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◾︎ポーランド継承戦争、始まる。

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1733年、依然、"選挙王政"を敷いて国王を貴族同士の投票で決定していたポーランド王国🇵🇱は、フランス王ルイ15世🇫🇷の根回し謀略を受けてルイ15世の義父(ポーランドに領地を持っていた)を新国王に選出する。

 

フランスとポーランドの合併を脅威と感じた隣国のオーストリア帝国ロシア帝国🇦🇹🇷🇺は、共同してこれに政治介入して別のポーランド国王を立てた。

 

フランスは「内政介入するな😡💢」と(自分も内政干渉してるくせに)激怒し、とりあえずオーストリアだけに宣戦布告。ポーランドの所有権を巡ってポーランド継承戦争(1733-1735)が勃発する。

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フランス国王軍🇫🇷はオーストリア領のロレーヌ地方を速攻占領し、北イタリアでオーストリア軍と合間見えて撃破する。


ここでロシア🇷🇺が遅れて参戦ポーランドに軍を送り込み、侵攻する。フランスが立てたポーランド国王(ルイ14世の義父)は王位を追われて亡命。

 

ロシアの突然の参戦に慌てたフランスは、占領したロレーヌ地方(鉄と石炭のヨーロッパNo.1産地で、軍事・工業的重要性大)をフランス領とすることを条件に、ポーランドから手を引くこととなった。

 

 

 

◾︎勝手に決まったポーランド分割

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ポーランド継承戦争によってポーランド王国政府は政治力を失う。一方、周辺国家(ロシア、プロイセンオーストリア)は絶対王政を確立し、中央集権により国王権力をフル強化していた。

 

ロシアのエカチェリーナ女帝🇷🇺は弱体化したポーランドに内政介入し、ロシアの保護国とすることを狙ったが、プロイセン国王フリードリヒ大王🇩🇪がそれに「待った」を掛けて、オーストリア女帝のマリア=テレジア🇦🇹を誘ってロシアを牽制。

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↑左からエカチェリーナ(露)、フリードリヒ(独)、マリアテレジア(墺)

 

結局、三者間のみで話し合いが持たれ、ポーランドを分け合うことが決定される。この会議にポーランド政府関係者は一切呼ばれず、ポーランド領土分割のお知らせが後にポーランド議会に届けられる。議会はそれを呑むほかなく、この第一次ポーランド分割により、ポーランドは30%の領土と35%の人口を失った。

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この後、フランス革命勃発(=民衆が王権を制限する憲法を定めた)の影響もあり、ポーランド議会は立憲君主制などを定めた憲法を発布(1791)。これによりやっと選挙王政は廃止され、王位はザクセン家の世襲と決められる。明治の日本がすすめたように、ポーランド独立国家を維持するため、近代化を目指した。

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しかしロシアのエカチェリーナ女帝🇷🇺がこれに反発。

絶対王政国家のロシア帝国は、フランス革命の伝染病”である「憲法」ーーー国家(=国王)の力を議会(=民衆)が制限するルール制定で、それにより国民の権利を守るものーーーがポーランドというロシアの直近国にまで波及することや、その影響でロシア帝国内で民衆革命が起こることを脅威ととらえ、大量のロシア軍ポーランドに送り込んで徹底弾圧した。

議会は紛糾するも、ポーランド国王はロシアに憲法停止を約束し、停戦となった。

 

 

当時の西ヨーロッパではフランス革命の炎が燃え上がり、その封じ込めのために各国は対応を追われていた(自国にまで民衆の絶対主義体制打倒を目指す革命が広がる事を恐れた)

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その隙をついてロシア🇷🇺は第二次ポーランド分割を画策。

 

ロシアと同盟を結んでいたプロイセン🇩🇪もこれに加わり、その他列強の介入(「ちょっと待った!」)を受けることなくポーランド分割を円滑に進めることが出来た。

 

ロシアは形式的にポーランド議会に分割案を提出。議場はロシア軍の大砲で包囲され、反対するポーランド議員はロシアに逮捕され、賛成する議員が出ないまま、「沈黙は同意とみなす」として、議会は終了。ロシアとプロイセンに領土が分割された。

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ポーランド分割に抵抗し、パリのフランス革命軍の元へ亡命していた軍人コシューシコは、1794年、国家消滅の危機と祖国愛を訴えてポーランド国民を束ね、首都ワルシャワで蜂起した。

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*ポーランド紙幣のコシューシコ

 

ロシアのエカチェリーナ女帝🇷🇺は、「隣国で突発した火事を、その最小の火花まで消し去るだけでなく、灰殻から新たに燃えあがる可能性を永遠に取り除くために、近隣三宮廷が隣国を領有するときが来ました」とおっかない演説をして、ロシア帝国プロイセン王国オーストリア帝国の3国による反乱の徹底鎮圧と、ポーランドの完全分割を宣言。


1795年、第三次ポーランド分割により、国王は退位し、ポーランドは地図から姿を消した。

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◾︎ナポレオンのワルシャワ大公国

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革命中のフランスでは、「俺たちはフランス国民だ」というナショナリズムという意識が人々に生まれたことで、国民徴兵制が整い(王室所属の軍隊ではなく、国民が兵士となり、みずから国のために立ち上がって戦うため士気も高くクソ強い)、革命フランスは圧倒的な数と質の戦力をもって、鎮圧しようとフランスに介入してくる各国の王室軍との防衛戦争を戦っていた。

 

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その渦の中で功績を挙げ、次第に革命のリーダーとして持ち上げられた英雄ナポレオンは、“フランス革命の徹底遂行”のために1796年から1815年まで革命を抑え込もうとするヨーロッパ諸国に対して遠征を繰り返して、各国軍を撃破。

 

ロシア・プロイセンオーストリアの3列強の支配下にあったポーランド人🇵🇱は、絶対主義国家に対して革命を遂行するナポレオン軍🇫🇷を支配からの解放者として讃え、協力した。

彼らは「ポーランドいまだ滅びず、我ら生きるかぎりは」と歌ってナポレオンフランス軍とともに進軍し、それは今日のポーランド国歌になっている。

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1806年、ナポレオン軍はイエナの戦いでプロイセン王国に完勝し、首都ベルリンに降り立つ。プロイセン領旧ポーランドの土地に『ワルシャワ大公国🇵🇱』を発足させたナポレオンは、公民平等と記した憲法を定め、ドイツ貴族(ザクセン公爵)を君主に就けた。

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ナポレオン帝国:紫とピンクに染まった領土がナポレオン支配下にある

 

ワルシャワ大公国はポーランド人による政治ではない傀儡国家 (ナポレオンのコントロールを受けるドイツ貴族が公位に就く) で、ポーランドの復興とは決して言いきれるようなものではなかったが、元からグダグダな政治体制に慣れていたポーランド人はわりと喜んで、ポーランド国家復活の望みをかけて、モスクワ遠征に大軍を送るなど、ナポレオンに最後まで協力した。

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◾︎亡国のポーランド

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しかし、ワルシャワ大公国🇵🇱ナポレオン戦争がフランスの敗北に終わったのち、すぐに消滅する。フランス革命から長く続いた民衆動乱がナポレオンの敗北によって一旦収まり、元の絶対主義国家体制による秩序が戻ってきたためだ。各国王室やその代理人が集まって戦争処理を話し合ったウィーン会議(会議と言う名の舞踏会)において、列強国の合意により、潰すことが決定された。

 

その土地を新たに支配することになったのはロシア帝国🇷🇺で、建前上はポーランド立憲王国🇵🇱』としてポーランド伝統の議会の復活などをポーランド人に対して認めたが、国王にはロシア皇帝アレクサンドル1世が就いたため、実質ロシア領🇷🇺となった。

 

ロシア皇帝アレクサンドル1世は、

絶対主義国家同士が協力して民衆の反乱や革命を抑え込む「神聖同盟」を提唱し、ヨーロッパ中の君主がこれに加盟した。(非加盟はイギリス国王、ローマ教皇オスマン帝国国王=スルタンのみ。)

ロシア帝国はこの盟主として、以降、ヨーロッパで何らかの蜂起が起きるたびにロシア帝国軍を積極的に出動させて鎮圧に当たったことから「ヨーロッパの憲兵と呼ばれた。

 

もちろん、そのロシアのお膝元のポーランドは徹底的に管理された。はじめは宥和的に議会の開催や憲法を認めていたものの、次第に議会の決定をガン無視して専制政治を始め、ロシアへの吸収を進めていった。

 

 

■革命は“ヨーロッパの憲兵”に踏み潰される


ヨーロッパはフランス革命の残り火🔥がことあるごとに各地で噴出しており、他国で民衆蜂起が起こるたびにポーランドでもたびたび反乱(uprising)が発生することとなる。

 

1830年、フランスで七月革命🇫🇷(レ・ミゼラブルのやつ, 自由主義革命であり、フランス王室に対し民衆が“経済活動の自由”や“言論の自由を求めて立ち上がった)が起きる。

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ーーこれにより、ナポレオン敗北後にフランスに絶対主義体制を復活させていたブルボン朝・国王シャルル10世🇫🇷が退位。絶対主義が終わりを迎え、議会が憲法によって国家権限を制限することに友好的な“市民王”ルイ=フィリップが国王を務める立憲君主制が樹立される。(“君臨すれども統治せず”・・・ 現在の英国や日本の国家体制と同じ)

フランスはこれによりブルジョアジーが資本を用いて自由に経済活動を行うことができるようになり、国家ぐるみで資本主義経産業革命を進行させることになる。

 

この影響はポーランドにもすぐさま波及した。1830年ワルシャワの反乱🇵🇱は大きな動乱となり、ポーランド反乱軍はフランスの革命軍(レジスタンス)から大量に密輸入された武器を持って戦い、一時ワルシャワをコントロール下におさめた。

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これに呼応して議会はポーランド独立を宣言したが、しかしすぐさまロシア帝国は大軍を送り込んで弾圧、ワルシャワは陥落し、独立戦争は抑えこまれた。これ以降ポーランドはロシア語を強制されるなど、ほぼ完全にロシアの一部となる。ポーランド人ピアニストのショパンは『革命』を作曲して祖国を嘆いた。

 

 

 

1848年、フランスで二月革命が発生する。(前述の自由主義を掲げたフランス七月革命との性質の違いに注意したい、これは労働者階級による“平等主義”革命*とであった)

*もちろん自由主義的な側面もあったが、結果としては平等主義の性質が政策に色濃く反映された

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ーー七月革命による資本主義と産業革命の進展、これに対して蜂起者は赤旗🚩を掲げて財産の分与などを求めた(=七月革命が確約した“財産の自由”に反する)。ルイ・フィリップはこれにより退位し、フランスは国家の最高位を民衆選挙で選ぶ仕組みである「共和制」となる。民衆は“結果の平等”的なイデオロギーを帯びた政策を強く支持し、労働者に仕事内容のいかんに関わらず給料を保証する国立作業場の設立など次第に社会主義的な性質を帯びていき、フランス経済はしばし停滞を迎えることとなった。

 

この影響を受けて、ヨーロッパ中でナポレオン後の絶対主義国家体制(ウィーン体制)が崩壊に向かうという、1848年革命(“諸国民の春”)の動乱がヨーロッパに巻き起こる。

・🇦🇹ウィーン三月革命…@オーストリア帝国

・🇩🇪ベルリン三月革命…@プロイセン王国

・🇮🇹イタリア各地(ローマ、ミラノヴェネツィア)で革命 VS. オーストリア帝国の支配

・🇭🇺ハンガリーマジャール人達による独立運動 VS. オーストリア帝国の支配

・🇨🇿ベーメン(チェコ)のチェック人達による民族運動 VS. オーストリア帝国の支配

・🇬🇧マルクスエンゲルスがロンドンで共産党宣言を刊行(1848.2)

 

当然、ポーランドでもこの影響を受けて、クラクフボスナニなど都市部で大規模な反乱が起こった。

しかし、これも“ヨーロッパの憲兵たる強大なロシア帝国軍によって、あえなく鎮圧されてしまう。

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また、ロシアのクリミア戦争敗北を受けて63年にも"赤党"とよばれた青年たちの反乱が起き、第一インターナショナル(マルクスがロンドンで結成した国際労働者組織)の支援を受けたが、いずれもロシア軍に圧殺された。

 

 

 

◾︎ポーランド建国の父、ピウスツキ元帥

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ポーランドピウスツキは、ロシア帝国からの独立計画を着々と進めていた。ロシアの社会主義勢力(テロリスト)による皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画の一端に参画したが未遂に終わる。

1914年、ロシアのパン=スラヴ主義ドイツのパン=ゲルマン主義の対立が遠因となって、バルカン半島からWW1の火の手が上がる。ロシアは初っ端ドイツとのタンネンベルクの戦いで、25万の兵のうち12万5千を失う大敗を喫した。

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このチャンスにピウスツキ元帥は自ら創設したポーランド軍を率いてロシア帝国に対して反乱を起こす。ドイツ&オーストリアの支援を受けたが、ドイツがポーランド独立を認める気がない(ドイツ支配下に置こうとしている)ことを察知すると、ドイツに対しても反旗を翻した。

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1717年ロシア十月革命(これによりロシア帝国は打倒され、レーニン率いるソヴィエト=ロシア🚩が誕生する)、また1718年のドイツのWW1敗戦によって、ポーランドは主権を回復し、123年ぶりに国家を復興させる。

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ソヴィエト=ロシア🚩のレーニン『平和に関する布告(Декрет о мире)』を発表して"民族自決"を世界に広く呼びかけ、アメリカ🇺🇸のウィルソンもこれに対抗して"民族自決"を盛り込んだ『十四か条の平和原則(Fourteen Points)』を発表。この二つにはどちらも「ポーランドは独立させるべき」という内容が盛り込まれていた。

ヨーロッパ列強が支配する帝国主義秩序に対して、"民族自決" という旗を振ることで列強支配下の植民地勢力下に置き米ソは新秩序を作り上げようと目論んでいた。

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◼︎ポーランドの独立と、“大ポーランド”再興

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WW1後のドイツ🇩🇪の敗戦処理ヴェルサイユ条約により、1919年、ポーランド共和国の独立が国際社会に承認される。またポーランド戦勝国としての立場から、敗戦国ドイツよりポーランド回廊 (Polish Corridor)を獲得。内陸国ポーランドはこれにより海への出口を得る。

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バルト海へと続くポーランド回廊。ドイツ人居住地だが、戦勝国ポーランドに海への出口として与えられた。これによりドイツ帝国の領土は分断され、ドイツの東側領土(東プロイセン)は孤立することとなる。

 

また、オーストリア🇦🇹の敗戦処理であるサン=ジェルマン条約により、オーストリア帝国(オーストリア=ハンガリー二重帝国)の解体が決定。

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オーストリアハンガリー🇭🇺、チェコスロヴァキア🇨🇿、ポーランド🇵🇱、セルブ=クロアート=スロヴェーン🇷🇸(=ユーゴスラビア)の独立を承認。さらにイタリアにトリエステ、南チロルなどの領土を返還した。

オーストリア帝国支配下にあった民族のほぼ全てが独立し、それにより帝国領の3/4を失った。以降はドイツ人の単一民族国家である「オーストリア共和国🇦🇹」として再出発を図ることになる。

また、ドイツ国家の再度の強大化を封じ込める狙いから、サン=ジェルマン条約ではドイツとの併合も禁止されており、オーストリアはドイツ系小国家として自立した道を辿ることとなった。

 

またソ連🚩では、対ソ干渉戦争(Siberian Intervention, 1918〜1922)が続いていた。社会主義革命の影響を封じ込めるため、アメリカの呼びかけで日本、イギリス、フランス、カナダ、イタリアなどの連合国が白軍(≒元ロシア政府軍)を支援して一斉に攻め込み、ロシアは混乱していた。

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↑外国軍の侵攻によりロシア人民の愛国心は呼び覚まされ、ソ連はむしろ強化されることとなった。ソヴィエト政府は国民の支持を強く集めて全工業の国有化、農民からの食料徴発などを成し遂げ、共産主義体制を強化。国民は次々に赤軍に加わり、次第に軍事力を強大化させ、1920年頃までにはソ連領から連合国軍をほぼ駆逐することに成功する。

また、レーニンはコミンテルン(第三インターナショナル)を設立して「世界革命」<それぞれの国で社会主義革命を起こして政府を打倒し、労働者の理想郷であるソ連に加わろう!> を呼びかけ、これに共鳴した各国の社会主義者たちによってヨーロッパ諸国や中国・日本などで共産党が結成された。

 

 

ポーランド🇵🇱のピウスツキはこの混乱に乗じて1920年ロシア領への侵攻を突如開始する。目指すは18世紀のポーランド分割以前の領土の回復 ーー “大ポーランドの復活だった。ソヴィエト政府はポーランド国内で労働者が蜂起して社会主義革命を起こし、赤軍に加わることを期待したが、ポーランド人労働者たちはソ連が掲げたインターナショナリズム(「“世界革命”により国境をなくし、全世界を共産主義世界にしようぜ」)よりも自国のナショナリズムを優先してピウスツキに加勢した。ポーランド共和国ポーランド=ソヴィエト戦争に勝利し、ベラルーシ🇧🇾と西ウクライナ🇺🇦を獲得した。

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ピウスツキは国家再興の英雄として国民から絶大な支持を得て、ポーランド国家主席兼総司令官として圧倒的な権力を手にした。彼は1923年にポーランド議会に全権力を譲渡して一度は引退したが、小党乱立で議会がろくに機能しない状況を嘆いて三年後にポーランド国民の支持を背景にクーデタを起こし、国民投票を経て大統領に就任、35年まで独裁的な権力をもって国家を率いた。

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ーーー次回、「(仮)ポーランドの歴史2」へ続く。

 

 

 

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