FIGHT CLUB

俺とオマエのFIGHT CLUB

アメリカの銃規制議論に決着がつかないのは、このテーマが「議論」には適さない、ホンネとタテマエの争いだから。

f:id:nonnojoshi:20180404014432j:image

 

──例の事件以降、アメリカでは銃規制議論が大々的に巻き起こっている。

 

銃規制派 VS.銃規制反対派。

 

銃規制議論は、アメリカでいま一番ホットな話題だ。TVやネット、SNS、新聞、雑誌、その他さまざまなメディアを介して、たえずさまざまな主張が報じられている。

挿入)民主主義社会においては「世論」こそがすべてだ。世論は大いなる力を持つ。世論は国運も左右する。アメリカがベトナム戦争に敗北したのは世論の力による。

世論を牛耳るのはメディア。両勢力はこの力を利用しようと、さまざまなメディア上で激しく火花を散らしている。

 

そして、この議論の観察が

いま、面白い。

 

──とはいえ、もちろん議論の内容自体はなにも面白くない。(「私は銃によって家族を失いました」系の道徳の教科書に載ってるようなモラル感情を刺激する被害者の弁と、アメリカンなおっさんによる「銃こそ我が国家の〜」とウブ毛が奮い起つようなマッチョイズムな弁が俺たちの想像通り、ステレオタイプにひたすら戦わされているだけだ、ふつうの人間は「カタ」に沿ってしか文章を書かない、だからどこかで見たような文章ばかりがこの世界には溢れかえっている、たとえばGoogleで検索して出てくる個人ブログのほとんどがどこかで見たような文体、何かのルールに当てはめたような「カタ」によって綴られている、しかしそれこそが正しく社会性だ、文を書く行為が享楽ではなくワークであれば──伝えることがメインであれば文を書くことはワークであっていい──あらゆる文章はテンプレでいい、面白みはないが、)

 

面白いのはその背後にある、構図だ。

 

──議論に参加者として加わったり、どちらかに没入(感情移入)したりするのではなく、議論の構図を俯瞰して眺めてみてほしい。人間と人間のやりとりはピタゴラスイッチだ。そこにはかならず“仕組み”と“ロジック”が存る。(あるいはフィーリングというロジックが)

f:id:nonnojoshi:20180407043156j:image

***注: 俺はこの文章で銃規制の是非についての倫理的なハナシ、圧力団体(全米ライフル協会)などが及ぼしている影響等社会的なハナシをしたいわけではない。だいたいこの「アメリカ社会の銃規制」とかいう眠すぎるテーマにほとんど興味がない。付け加えて、この投稿文を “物を書く上での5・7・5” に従って巧くまとめるつもりもない:ふつうアメリカの銃規制について文章書くならこんなつっけんどんではなくもっと導入部分とかスターウォーズの開幕場面みたいにこんな事件が起きたとかこんな事になっているけどとか状況、背景、説明すべきでしょ:(走り書きの散文からきちんと構成された読める文章に仕上げるまでに自分は物凄く労力やリソースを要する、なので「とりあえず走り書きしてぇ」みたいな衝動によってブログ書くときにちゃんとした文章仕上げるのはめんどくさいしやめた)ので、稚拙な構成でハナシの展開を急転させます

 

この銃規制議論がもし、どこかの大学でためしに行われた「ディベート」であるなら、ほぼ100%規制派の勝利で決着がついているだろうと思う。

それほどまでに、規制反対派(=銃支持派)の主張のほとんどが稚拙でアホらしく、ロジック強度が低い。

 

f:id:nonnojoshi:20180407033627j:image

銃規制反対派「もし銃が危険なら、射撃場はアメリカで最も危険な場所になってるはずだ」

 

ようは「なぜ、こんな話が延々と続いているのか」が分かりにくい議論なのだ(身近な口論でもこういう事はままある)。議論の内容だけを見ればもう勝敗は決まっているし、それをみた大衆が議論の正義を信じているならば、ディベートで勝ってる方を支持するだろう。

 

「議論をすること」それ自体が目的ではなく、議論をする行為に目的(for〜)があり、その実行のために議論がなされているかぎり、もうほとんどそこに決着がついているならば、話し合いを終えて実行段階に移す(もしくは「こうしますよ宣言」をする段階に向かう)べきだ。

 

f:id:nonnojoshi:20180407031032j:image

 

じゃあなぜ、未だにアメリカ社会は銃を規制しようという方向へ進まないのか?(繰り返すが、アメリカの政治事情についてこの文章は語らない、そういう文脈ではない)

 

つまり、行動のための議論を決着させて、いざ行動に移ろうとしないのか。

 

それは、議論はほぼ決着状態(あるいは、論理的には決着しているが一方が駄々をこねて話が終わらない状態)にあれど、その理(ことわり)を大多数の人間が受け入れられないからだ。

 

「銃を規制すること」は、大多数のアメリカ人にとって、ココロの理に反しているのだろうと思う。*a

 

いくら銃規制派がアタマの理(合理的)に沿って“正しい”主張を述べようと、そしてアメリカ人3億人がアタマの理でその正しさを確認しようと、彼らのココロの理(心理)を覆すことは難しい。

 

「銃規制はバカげてる」

「単純にアホらしい」

「そんなもん間違ってる」

 

文面だけ見ると意味不明のナンセンスだ。ロジックが全く通っていない。なんでバカげてるの?なぜアホらしいとおもうの?どこが間違ってるの?それらを明確にしない限り子供チックだし、これでは議論には勝てないだろう。

 

しかし、アメリカ人の大勢が「実際に思っていること」が“まさにこれ”というのが問題なのだ。

 

バカげてる。阿呆らしい。間違ってる。

 

社会的な場面でそのまま口に出すかどうかは別にして、いざ持っている銃を“没収”しようとした時に、彼らの口からソッコーで飛び出してくる言葉には違いない。

 

ふつうの社会性を持つ人間であるならば、「バカ」「アホ」などとココロで思った心情をそのままの状態でコトバに変換することはない。「○○はアホ」みたいな罵倒表現は、なにも考えずに好き勝手に発言できるネットならではの文章だ。きちんとした場で意見を表明する際は、「○○はアホ」と思った理由を、他者からみて筋が通るように装飾する<この時に自分の思考それ自体も装飾される>ことだろう。しかし、忘れて欲しくないのは、人間のナマの心情(=思考)は「○○はアホ」という文章で表現される内容そのものだということだ。大衆のほとんどは実際に、このままの意味でこう思っている。それが彼らの意見だ)

f:id:nonnojoshi:20180407051919j:image

 

 

人間はアタマにとっての正しさとココロにとっての正しさが食い違う生き物だ。

 

──人間の思考は「二重構造」になっている。その2つの間に軋轢が生じたとき、外向けにくっちゃべるコトバと内心の思考が違うということになる。*1  あるいは、内心でも「そうやって自分は『思考』している」と思考していても、その思考に反する「感情」*2が自分の中のある部分に存在しており、実際に意思決定を迫られるなどした際、おもわずそっちが力を持つということがある。

*1 これはホモ・サピエンスに特徴的な生態だが、チンパンジーの世界などにも存在する。彼らはボスの前では愛想笑いをする。

*2文脈破壊になるが、感情とはただしく思考である進化心理学を学んでほしい)。アタマの思考と、ココロの思考。この2つは一般的に思考的である「理性」と非思考的な「感情」として対比されるが、実はそのどちらもが、ロジックに貫かれた、いわば思考である

 

 

サンデル教授じゃないが、

ここで正義の話をしよう。

f:id:nonnojoshi:20180407052345j:image

──たとえば人間がある物事の「正義」について “議論” するとする。このとき人間はすべての思考や判断を合理性(reason)の光に照らし、それと齟齬がないように発言することになる。

 

このとき、この思考システム/判断システムは理性(reason)に基づくものだ。このシステムにおいては徹底的に合理的な思考が為される。

 

合理的な思考システムにおいては、たとえ理性と感情が真っ向から対立し「どちらが正しいのか」を中立的な立場から審判せよ、という局面においても、当然、理性のほうが贔屓される。

 

そして、感情は合理的でない(ことわりに合わない)として強権的に退けられてしまう。「それは感情論だ」は合理的な議論における水戸黄門の印籠になる。

 

このシステムに則るかぎり、理性的でない人間や理性的でない主張をする側の敗北は、ほぼ既定路線になってしまう。

 

これでは中立もヘチマもない。(もちろん感情論を排そうとする姿勢は“中立”であろうという理性の意識から来ている)

f:id:nonnojoshi:20180404040806j:image

 

多くの場合において、理性は「タテマエ」であり、感情は「ホンネ」である。

たとえば「立派な社会人になる」とは個人の感情を抑圧し、理性的に生きられるオトナになる、というような趣旨を含意した言葉だ。

 

社会は理性(タテマエ)によって秩序が保たれている。自らの感情(ホンネ)は自制せよ、抑圧せよと教育されている。

f:id:nonnojoshi:20180407133400j:image

(理性)移民差別は間違ってる。⇔ (感情)仕事奪いやがってウゼェ、腹立つ、消えろ。

(理性)不倫はとんでもない社会悪だ。⇔ (感情)クッソ羨ましい、腹立つンゴ、シココココ・・・・

*理性とは“公的発言”だ。

 

“タテマエとホンネの戦争”は、ポリコレ(政治的正しさ)とポピュリズムの対立など、21世紀の世界を捉えるのに有用なフレームであり、これからますます重要なテーマになってくる。

 

銃規制の議論とは、タテマエとホンネの議論なのだ

f:id:nonnojoshi:20180404041859j:image


「銃規制するべきだ」はタテマエ

「銃で身を守りたい」はホンネ

 

ホンネとタテマエが議論しているのを第三者の立場から傍聴(この時、アタマは理性モードである)してみるとしよう。

 

きっと傍聴人には、タテマエを主張する側の発言が合理的で筋が通った正しいオトナな意見に聞こえるだろうし、ホンネを主張する側の発言はわがままで身勝手な子供っぽい要求、もしくは屁理屈に聞こえてくるだろう。

 

それは「議論」という仕組みそのものがタテマエの文脈で成り立ってるからだ。DADA(やだやだ〜)を徹底的に封殺するのが議論だ。嫁に議論では勝っても口論で負ける夫は大勢いる。フィールドが裁判所ならば夫の勝利かもしれない。

しかし実際、社会で大勢を占めているのはDADAの力で、夫は妻に口論で負ける。民主主義は数の力であり、タテマエの公的発言では「銃規制に賛成します」と述べていても、ホンネが「やだやだ」ならば(ホンネは潜在的で実測できない)、やだやだの道理が通る。

 

タテマエで「銃規制に賛成します」と述べる人間の数をいくら増やしても、社会はいつまでたっても変わらないのだ。

 

そこを理解して、それでも議論の場で話し合ったうえで相手の意見を変更させようと思うならば、その議論においてホンネ側の主張が多少稚拙なのは仕方ないと思えというか、割り引いて考えろというか、そのホンネを引き出して鬼の首を取ったように「なんて感情的なんだコイツは!」と叩いても意味がない。

 

そんなことをしたら、せっかくテーブルの上に並んだホンネを、彼らは負けたくないがためにまた引っ込めてしまう。

f:id:nonnojoshi:20180407141730j:image

 

 

 

また、議論を傍聴する側も「議論」というフレームを外して両者の立場を想像することが、価値中立なジャッジのためには大切なことだ。「こいつら何考えてんだろ。アホだなぁ」ではなく、感情に寄り添って考えないといけない。

 

周りの人間がみんな銃を所持しているという状況自体、日本人にはピンと来ない。

 

でも、第三者なりに頑張って想像してみることが大切だ。西部劇のような、誰もが荒くれ者のガンマンで、腰にピストルを差しているワイルドな世界を。

f:id:nonnojoshi:20180404035020j:image

 

そのような状況下で、保安官が自宅に訪ねてきて「銃を規制するから差し出せ」と言う。大人しく「はいどうぞ!」と手渡せる奴が一体どれだけいるだろう。

 

悪人からすべての銃を取り上げることなんてもちろん出来るわけがないのに、善良な市民である自分たちだけが武装解除させられ、丸腰にされる。

 

タテマエでは銃規制が正しいことだなんて、みんなわかっている。問題はホンネだ。周りがみんな武装してるのに、自分だけ武装解除なんてしたくない。

 

タテマエの場にホンネを引きずり出すことはできない。実体のないゴーストをただ殴っても無意味だ。決着がつかない。

 

解決したいならば、ホンネで議論がなされなければいけない。ホンネで議論がなされる時、それはひどく稚拙な口論になり、議論ではなくなる。

 

これが難しいところだ。

 

Re:銃規制が正しいことだなんて、みんなわかっている。

 

f:id:nonnojoshi:20180407134159j:image

 

(※ a あえて、この文脈で、「アメリカ人のココロの理に反している」などと紛らわしい書き方をした。愉快犯。「この文章は後にこう続くんだろうな」という予想を裏切るカオス、これがとにかく楽しいと感じてしまう。変態性癖。)

 

銃規制には、もちろん、「建国理念」という国家&民族アイデンティティ的な問題も絡んでいる。

──銃規制はアメリカ人の"ココロの理"に反している。アメリカは自由の国だ。個人には自己防衛(武装)の自由と、自由を侵害する支配者に対する革命権が認められている。

 

「警察や軍隊のみが武力(銃)を持つべき」

──こういう考えの日本人は多いが、アメリカ人がこの状況を「ヤバい」と思う感覚を土着的に持っているのは確かだ。

 

現在存在する大方の先進国の歴史には、市民革命の経験フランス革命アメリカ独立戦争に代表されるように “市民がみずから立ちあがり、強権な政府から自由の権利を勝ち取った”というストーリー)がある(そして国家の教育もその成果と重要性を強調する)が、日本にはそれがない。

 

おそらく、「お上には絶対に逆らってはいけない」という価値観はここから来ている。

・やたらに組織に従順な国民性(ex. ブラック企業の唱える「正義」< ○○するのは金を貰ってる以上当たり前だ >に対し、そうだなぁと受け入れてしまう)

・過剰(マジメ)すぎる遵法精神(法律やルールで決まってるんだからいけないことだ、絶対悪だ)

なども、きっとこの辺のお国事情にルーツがあるんじゃないかなぁと思う。

 

それまで正しいとされた正義守るべきだとされた法律や秩序が、「革命」というちゃぶ台返しによってすべて転倒する。

悪が正義に、違法が合法に、反秩序サイドが秩序サイドにひっくり返った経験や歴史。それを持たないがゆえに、そしてそれを教育しないがゆえに、この国にはルールや常識を盲信する、融通の利かないカタブツ人間ばかりが溢れかえっているのではないだろうか。