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『マスク依存症』の日本人── あるいはなぜ、人々は「顔を隠したいからマスクを着けている」事を絶対に認め(られ)ないのか

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こんな記事が報じられている。

以下、引用しよう。

 

日本を襲う「マスク依存症」── その原因は「本音と建前」という日本文化 

>日本人のほとんどの人は、「マスクをするのはウイルス感染や花粉症の予防のため」と言っている。

しかし、マスクが病原菌の感染を防ぐという研究結果はなく※、それどころか、高温多湿の環境下でマスクをすることで病原菌の感染を加速させる恐れすらある。

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もう一つ、より重要なのは日本においてマスクが強力なファッションアイテムとなっていることだ。

髪を洗っていない人が外出する際に帽子をかぶるように、ノーメイクの人がマスクをして外出するということもあるという。

 

さらに、マスクは表情を隠すことができることから、日本人の根本にある「本音と建前」の文化にも関係があるという。

「本音」は人の心の中の本当の気持ちや欲望のことで、「建前」は公衆の場で振舞うときに見せる行動・言動を指し、ほとんどの日本人は「本音」は隠すべきだとしている。

 

そしてマスクをすることで、自分の本当の気持ちと公衆の場で振舞うべき態度の間に生じる矛盾が解消されるという訳だ。

ある専門家は、「日本のほとんどの人が『マスク依存症』にかかっており、他人と交流する際に不安を感じるため、マスクをしてリアルな交流を避けたがっている。

マスクに守られると、多くの日本人はリラックスして他人と交流できるため、マスクは本音を隠す手段の一つとなっている。

 

ひとたびマスクを外すとあっという間に周囲の環境に敏感になり、自分の見た目が他人を不快にさせていないか不安に感じ、他人の視線が気になり、心拍数の増加や発汗などの体の反応が起こる。

 

このような特徴から『マスク依存症』は日本人の国民病ともいえる」と分析している。

 

 

※注「マスクが病原菌の感染を防ぐという研究結果はない」・・・われわれは、マスクをしていても呼吸ができる。空気を鼻や口に吸い込むことができる。それはマスクに穴が空いているからだ。当たり前だが、ウイルスや細菌のサイズはマスクの穴の大きさとは比べ物にならないほど小さく、マスクなどもろともせず貫通する。医者や看護師が着けているのは、あくまで、自分のクシャミを免疫力の弱った患者にそのまま飛ばさない為であって、感染を予防する為ではない(できない。)

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──まさに!という記事だ。

 

誰がなんと言おうと、マスクには心理的な効用がある。そしてその効果を期待して装着している/手放せなくなっている人が、この日本には大勢いる。

 

自分の顔を晒さないことで、つまり相手には自分の顔が見えないことで、リラックスできたり、安心できたりする。

 

 

また、マスクを装着することで、ある種の“強い気持ち”が昂ぶるということもあるだろう。

 

警察官がやたらにマスクをつけて仕事するのは、荒くれ者の市民を制圧する際にマスクを付けていたときのほうが、心理学者エリックバーンが言うところの

「さあ、とっちめてやるぞ!」(NIGYSOB, “Now I've Got You, Son of a bitch!”)

という警察官を演る上で欠かせない精神状態(人生ゲーム)に適合しやすいからではないか?と俺は訝しんでいる。

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マスクを装着することで起こる人格の変化については、ペルソナ心理学や社会学歴史学の分野でさんざん語られていることなのでここでは割愛する*として、

その作用に知らず知らず依存してしまい、どこへ行くにもそれが手放せなくなってしまっているマスク愛好家の人口は滅茶苦茶に増えているに違いない。

 

*そういいつつ語るが、たとえば「仮面舞踏会」は、“みずから求めること”を恥ずかしいと思うオンナがより大胆になれる(これは「ワタシじゃないのよ」というタテマエで、ほんとうのワタシを“演じる”ことができる)場所であり、つまり男にとって(女にとっても?)非常に都合のいいパーティーなのだ。他にも、軍隊に顔を覆うマスクを付けさせると気持ちが昂り、勇猛さがあがるといった逸話も古代から残されている。

 

 

たとえば、日本人はSNSのプロフィールを自分の顔写真にすれば、途端に発言に慎みを覚えることになる。* 

「相手からは自分の顔が見えない」という心理作用がSNSやネットの発言を過激化させることに繋がっているのだ。

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ツイッターFacebookの発言内容の差。この差はかならずしもFacebook上の繋がりが公的であり、ツイッターの繋がりが私的だからというだけで生まれるものではない。もし、Facebookツイッターのように私的コミュニティのなかに閉ざされ、外部から見えない空間であったとしても、「トプ画の顔写真強制」というFacebookルールが残る限り、アイコン自由のツイッターよりは遥かに、人々は慎みを持った発言を行うだろう

 

 

 

実際、『顔隠しによる安心感がほしい』ってのが、日本人が年中マスクつけてる理由のうちの大半じゃないか?

 

そういう事を言うともちろん、マスク愛好家たちのほとんどは激しく反駁して、

「ふざけるな。風邪(予防)・花粉症(予防)のためにつけてるんだ。そんな奴らと一緒にするな」と答えるだろう。

 

*このブログのコメント欄が、実際にそう指摘された際のマスク愛好家たちによる回答サンプルだ。自己顕示欲にまみれた俺のコメントもある。

 

 

「マスクを着けるのは、ひとえに風邪 (予防)・花粉症 (予防) のためだ」

 

彼らが頑なにそう言い張るのなら、話を進めるために一旦それを信頼するとして、次の質問をしよう。

 

「風邪予防をしたい」

「花粉症予防をしたい」

と君たちが年中思考しているのはなぜだろう?

なにが君たちにそう思考させるのだろう?

 

そこから掘っていかなくてはならない。

 

人間心理には、「欺瞞/deception」と呼ばれる働きが備わっていることが知られている。人間はホンネの感情(たとえば、対人恐怖など)をうまくココロの無意識に落とし込んで、

 

「(この行為は)○○と言う理由で俺はやってるんだ」

 

と、自らの行動や思考のわけを、なにか別の立派な“てい”を成しているものに仮託して、本来の欲望などを自分でも認識できないココロの深層に埋めてしまう、ということがある。

 

実際にマスク着用には精神的な安らぎと対人恐怖を緩和する効用があると実験において証明されているのに、(自分は)それを目的にして着用しているわけではないと、必ずしも言い切れるだろうか?

 

 

* * *

 

 

──「マスク大国ニッポン」は、外国人にとってとても奇妙な光景だ。

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──裏を返せば、日本という環境は、世界でも特異な「マスクを着けていることが “普通” “何もおかしなことじゃない” とコモンセンスに思われている文化圏」であるわけだ。

 

だからこそ、人目を憚らずに日常的にマスクを着用することができるということもあるかもしれない。

 

日本人は、周りもみんなやってるべつに変に思われないこれは恥ずかしくないやっていいんだという状況じゃないと「日常的に布で顔面の半分を覆う」なんて特異な行動は、決してできない人種ではないだろうか。

 

それは日本人の精神性というものが、

"恥"の意識そのもので構成されているからだ。(アメリカの文化人類学ルース・ベネディクトは、西欧の「罪の文化」に対して日本を「恥の文化」であると述べた)

 

もし、ニッポンの国民意識が他国と同様、「マスク着用は “異常” であり、けっして “ふつう” ではなく、“見慣れないもの” である」という国民意識がスタンダードな環境であったならどうだろう。

 

彼らはそれでもマスクを着けるだろうか? 勿論、本当に風邪や花粉症で酷い症状が出ている場合を除いて──海外でもそういう場合はマスクをつけるし、あからさまな"病人"であるならばヘンにも思われない (あるいは、"病人"というコンテクストにおいて、「ヘン」であることは「ふつう」であると認識される) ──の話だ。

 

 

──否。そのような環境(マスクがふつうでない環境)に置かれると、日本のマスク愛好家たちは途端に「恥ずかしい」と思ってマスクを外すことになる。

 

なぜ、彼らの行動は「恥ずかしい/恥ずかしくない」という意識によってこれほどまでに左右されてしまうのか?

 

それはもしかして、"恥"こそが、彼らの振る舞い(=マスクを着ける)を駆動している本質的な理由であり、原因だからでは?──とここで安易な詭弁を振るってみると、いろんなことに辻褄があうし、合点がいくことがわかる。

 

たとえば「予防のため」というのが、彼らがマスクを着ける唯一の理由であるならば、恥ずかしい/恥ずかしくない という状況・環境の如何にかかわらず、彼らはマスクを着用して然るべきだ。

 

「予防のため」が理由であるにも関わらず、なぜ、マスクを着けるのが「ヘン」とされている文化圏においてはマスクを外し、マスクを着けるのが「ふつう」とされている文化圏においてはマスクを着けるのか。

そこには、彼らがマスクを着けるもう1つの理由──「恥ずかしくないから」が潜んでいることが見えてくる。

 

そも、マスクをつけるという行為を視認する際、それに付随してわれわれの脳に想起するイメージ(意味づけ)…“顔を隠すこと” は、「恥」という感情を象徴する行為(のイメージ)だ。

 

<顔を隠すこと=恥ずかしい>

 

の公式は、A.顔を隠す側(主体、あるいは後者にとっての客体)、B.顔を隠す人を見た側(主体、あるいは前者にとっての客体) の双方の意識や思考にインストールされている“意味づけ”である。

 

ゆえに、Aは「じぶんが顔を隠す行為をしている=恥ずかしがっていると思われている(or 誤解されている)だろう」という認識があるし、Bも「あの人は顔を隠す行為をしている=恥ずかしがっているのだろうか」という推測が、無意識にでも、アタマのなかで働いている。

 

そういう薄っすらとした共通認識のなかで、「マスクを着ける行為」は世界中から捉えられているわけだ。

 

ここにおいて、「顔を見られることが嫌だ(恥ずかしい)からマスクをつけている」、と認識されることは、人間にとってとてつもなく恥ずかしいことだろう。

 

そして、ニッポンはこの<マスク=顔を隠しすもの>という人々の認識が、マスク文化に紛らわされることで、全体的に希薄になっている(と、少なくともマスクを着けている側は認識している)国だと言える。

 

ゆえに、マスクを着けても、当人としては恥ずかしくないのだ。これが、“恥ずかしくない(理由)からマスクを着ける”の構造だ。風邪予防のため・花粉症のため、というある種のタテマエが、ある種のホンネ隠しとして社会的に大手を振って通用する国なのだ。

 

タテマエとは決して「ウソ」として、発する側&それを聞いた側に、有り有りと認識されうるものではない。

つまり、誰かの口からタテマエ(っぽいもの)が発された際、「それがタテマエであるか」を追求することそれ自体を暗黙的に禁止するという性質を帯びているものがタテマエだ。

 

“すいません、風邪引いちゃいまして”

 

デートのキャンセルにしても、仕事の当日欠勤にしても、タテマエは社会に軋轢を生むことなく、人間関係を円滑に機能させる目的によって発される。

 

もしここで、「ごめんやっぱお前キモいから一緒にメシ食いたくねーわw」「昨日飲みすぎてさ?マジでアタマ痛くて仕事になんねーの!立てねーし!いやほんとマジでw」──こういう風にホンネ・本心を述べてしまったら、人と人のコミュニケーションはどうなるだろう?

 

あるいは、「おまえ体調不良ってるけどマジなの?デートドタキャンって結局俺と行きたくねーだけだろ?あ?答えろやクソ女」とか、「は?マジなの?ウソだろ?ウソつかないで欲しいんだけど。次回来れる日いつ?ウソじゃねーんなら診断書持ってこいよ?あ?なに?ウソだったら許さねーからなテメエ」と

"タテマエ(っぽいもの)"に対して徹底的な真偽の追求が行われる社会では、人と人のコミュニケーションはどうなるだろう?

 

ウソか本当かをとりあえず互いに棚上げにしておく「タテマエ」は、社会を円滑に機能させることに大きく貢献しているし、そういう相互欺瞞のなかで我々は他人と関わっている。

 

タテマエが無いホンネだけの世界では、我々はつねに人とぶつかり合う。

だからこそ、「体調が優れなくて」は発する側は聞く側をむやみに苛立てなくて済む(苛立てたりケンカを売る気など毛頭ないのだ、その人とは穏便な関係を続けたいと思っている)、

聞く側は発する側のそれを半意識的に「信じる」ことで、本当の理由を述べられることで傷ついたり、怒ったり、信頼関係をむやみに壊してしまうようなことをしなくて済む(信頼できないと思うのなら自分から遠ざかればいい)、という互いにとってのwin-winによって成り立っている。

(※もちろん、これが「タテマエ」であるからには、このロジックは“暗黙”であるべきで、俺が今やっているように「ね?本当かウソか棚上げしといた方がお互いのためになるし、win-winでしょ?」というような理屈を白昼のもとに晒してはならない。このように"暗黙"であったものをテーブル上に出して、「タテマエの虚偽性」が示唆されてしまうと、人と人のタテマエ契約に無意識的に合意し、納得していた相手でさえ、その"ウソ"に対してありありと怒りや不信感を覚えるし、人間関係に亀裂が入ることは免れないだろう)

 

マスクを着けるのは「花粉症だから」です。もしくは「風邪予防のため」です。

 

これも同様に、"タテマエ"として日本社会では機能している部分がある。

よく社会に浸透したタテマエは、「体調が悪い」の真偽を追求したいという意識・それを疑うという意識すら、人々のアタマから忘れさせ、消失させる。

 

有耶無耶にして、意識的に“とりあえずそういうこと”にしておけば波風が立たないでしょう、という意識的/無意識的な相互認識のもとに、騙す側(騙している意識がなくとも)ー騙される側(騙されている意識がなくとも)の間で結ばれる、ある種の契約なのだ。

 

 

さて、マスク愛好者の弁が"ホント"であるというタテマエ(社会的事実)のもとに日本社会は構築されている──つまり、それはあくまでタテマエ(表層の事実)であり、「マスク愛好者の弁には裏がある」というわれわれの推測は暗黙のうちに社会においても広く認められているものだ、しかしそれは日本において社会的事実としては決して浮上しえない────

ということを念頭において、個人がマスクを着けるという行為のメリットに改めて立ち返ろう。

 

それはもちろん、「顔が隠せること」である。

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「顔を隠す」ことによって、これまで散々と述べてきた通り、他人と関わる上で当人が安心感を得たり、自己防衛欲求を満たせたり(「自分は安全」という気持ちが攻撃性等を昂らせることにも繋がったりする)、などなど心理メタファーとして「盾」を構えるという効果を当人のココロは得られるわけだ。

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顔を隠すことは、ココロに「盾を構える」効果をもたらす。では、それがなぜ心的に"有用"なのか?を考えるには、

 

<顔を晒す=恥ずかしい>

 

のロジック構造を、人間心理から紐とかなくてはならないだろう。

話はつぎの展開に進んでいく。

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なぜ、顔を晒すことは “恥ずかしい” のか?

──「恥ずかしい」という感情の正体

 

われわれがふだん、何の気なしに感じている「恥ずかしい」とはなんだろうか?よく言われているのが、日本人は「恥の文化」に縛られているということだ。これを紐解けば、日本人の正体の一噌までもが見えてくるのではないだろうか。

 

さっそく結論から述べると、

「恥ずかしさ(shame)」とは

「他者からの不承認に対する恐れ」

という感情であることが判明している。

 

恥ずかしさは、社会的な感情だ。それがある行為や状況にたいして発生するかどうかは、社会の性質や、個人がその社会をどう捉えているかに依存する。

 

“日本が「恥」の文化である”というのは、日本社会を象徴する「空気」システムによるところが大きいだろう。「空気」は日本社会で強大な権勢を振るう承認機構である。だから、日本社会に暮らす個人は、「空気」というものに対して、相当に過剰な"恐れ"を抱いているのだ。

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承認とは「いいね!」である。周囲から「いいね!」が欲しいという気持ちが承認欲求であり、周囲から「いいね!」をあまり貰えないという状況──むしろ「よくないね!」を自分は貰いまくっているのでは?という妄想に対する恐怖心が詰まる所「恥ずかしさ」になる。

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ちなみに、個人が「恥ずかしい」と感じる状況において同時に現出する「不安」とは「(まだ見ぬ未来や現実ではないことの)妄想に対する恐れ」の感情であり、「誰かにこう思われているのでは?」という思考が人間のアタマをよぎる時、「恥ずかしさ」と「不安」はともに連れ立って現出する。ふたつとも「恐れ」という感情の仲間であり、とても相性がいいのだ。

 

ヒトの感情とはシステムである。

──生物が生存し、生殖を行なって遺伝子を次世代に繋げていくための。

 

あらゆるシーンにおいて、人間のココロには感情が浮かぶが、それらはすべて生物学的に意味があり、発生する理由がある。

「恥ずかしさ」はなぜ人間のココロに備わったのか? ──それは、 “他者からの不承認” に対してなんとも思わなければ、社会的動物であるヒトの生存&生殖において大きな不利益がもたらされることが多かったからだ。言い換えると「恥ずかしさ」を感じる個体の方が、生存&生殖において有利だったという事だ。

 

もちろん、社会の性質によって淘汰圧は変化するため、恥ずかしさを感じない人間が生き延びやすい社会/恥ずかしさを感じる人間が生き延びやすい社会 というふうに、群れ、社会、文明、国家、個人が所属するそれぞれのフィールドの性質に依存して、人びとの“平均的な恥ずかしさの閾値” は変動する。人間はいわば「家畜化された動物」であるがゆえに、進化のシステムは自然選択のみによって駆動するのでなく、“人為的な選択”というファクターが大いに噛んで作動する(それを進化と呼ぶかは議論の分かれるところである)。つまり、人工的に遺伝子が選別され、種の形質(character)がそれぞれ変化する。

 

アメリカ人が日本人に比べて恥ずかしさを感じないのは、多様性(違うこと)が“ふつう”となっている社会において、“ 恥ずかしさ ” =「他者からの不承認に対する恐れ」を事あるごとに抱いているような個体は、生存&生殖に不利であった──むしろルーツなどが「違うこと」を楽しんだり、それをコミュニケーションのネタなどにして有用に活用したりといったことが、生存&生殖に有利にも働いたから──と述べることも、ウェイドやコクラン、ハーベンディングが唱えている文明進化説に則って語る事を許してもらえるならばだが──可能なのだ。

 

 

ここまで述べてきたように、「恥ずかしさ」とは「恐れ」の一種である。

 

ココロに喚起された「恐れ」の感情が、ヒトに何をせよ、と訴えかけているのかといえば、それは防衛である。

 

たとえば「怒り」は「恐れ」が“攻撃的防衛”に向かった際に現出する感情だ。自分に恐れを抱かせた者にたいして、闘争心を掻き立て、殲滅せしめんとする。

 

ある上司が何度指示しても自分の言うことを聞かない部下に対して「怒り」を発動させたとすれば、それはその部下に生物的な本能からくる“恐れ”を抱いた、ということだ。自分が上であるはずなのに、無視する=“序列” を破壊しようとしている?(恐れ) 自分の存在が軽んじられている?(恐れ)・・・そのようなサルとしての生存&生殖闘争における原初的なエネルギーが瞬時に呼び覚まされ、「怒り」として発動することになる。また、「不安(妄想に対する恐れ)」に取り憑かれている人間は、イライラと人に対して怒りを向けやすくなる、というのはこういう動物的なロジックで説明できる。

「弱い小物(こもの)ほどしょっちゅうイライラしている、器ちっせえなぁ?」

──その理解は、おそらく正しい。

 

 

さて、「恥ずかしさ」に話を戻そう。

 

こちらの性質の「恐怖」は、「怒り」とは異なり、他者に向けての“闘争”ではなく、自己に向けての“闘争”もしくは“逃避”として方向づけられる。

 

怒りが「他者を殲滅したい」という方向に向けられるのに対し、恥ずかしさは「自己を殲滅したい」という方向に向けられる。もちろん、本当に殲滅したいと思っているわけではなく、そのような自己嫌悪をココロに抱かせることで、「このような状況に陥ることは二度と無いようにしよう」と将来の生存&生殖を有利に働かせる(あるいは、働かせたいというココロの思惑)のだ。

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また、“恐怖”に反応して現れる防衛の意識が、「この場から早く立ち去りたい」という気持ちを生じさせる。それは、できる限りこの場から早く立ち去ることで、自分の生存&生殖における不利益を最小限に抑えたい(「恥ずかしい自分」のイメージを他者の頭に残存させたくない)ということなのだ。

 

たとえば、自分の顔に自信がなかったり(不安)、嫌悪している人、あるいはいつもと違って今日はすっぴんだという人は「他者からの不承認に対する恐れ」=恥ずかしさをより生じやすいことだろう。

 

そして、それを解消するために「マスクを着ける」という行動に向かうとすれば、あなや合理的である。

 

マスクを着けることには “盾を構える” という心理効果があるから、「防衛策」がまさに果たされている。「逃げる」という行動よりもはるかに、社会的に有用な対処法であることだろう。

 

同様の理由で、人は「恥ずかしい」と思うと、顔を両手で覆う行動をする。

 

これは「戸惑い(embarassed)」という心理で、「自分がどのような表情・態度をとらなければわからない」という混乱状態であり、そこからおもわず発生する「他者の不承認に対する恐れ」が「恥ずかしさ」へと繋がるわけだ。褒められているのに、それにどう対応すればいいかわからず、恥ずかしくなる。その時、手で顔を覆ってしまうのはこういうわけだ。

 

「マスクを着ける」のはべつに自分の顔に対する自意識がどう、という話だけではなく、心理的に「他者からの不承認に対する恐れ」=恥ずかしさを日頃から強く抱いているような性格であれば、日常的に「マスクを着ける」という行動が習慣として身につく可能性も高い。

 

「顔を晒すことが恥ずかしい」という思考には、

・自信のなさ

・他者に対する恐れ

・承認欲求

・自己承認レベルの低さ

・≒ 過剰な自意識

・自己嫌悪

・後ろめたさ

このような心理が働いている。

 

シャイな性格の被験者から、他者の不承認に対する恐れを実験によって取り除くと、シャイな性格の人はシャイでない性格の人よりも自己を呈示したいという欲求がより大きかった、という心理実験もあり、「自分を○○というイメージで見せたい」「他者に○○な自分を認識してほしい」という欲望の大きさの裏返しが、シャイな行動や性格に現れているということも示唆されている。

 

恥ずかしがりの女の子に接近するヤリチンの術──「俺は本当のキミをちゃんと見てるよ、知ってるよ」トークも、このように科学的なロジックからその効力を裏付けることが可能だ。“他者からの不承認に対する恐れ”に雁字搦めの女の子には「承認」という安心感を武器を大いに押し出して臨む。それにより女の子が抱えている “恐怖” は和らげられ(relieve)、なつき度が高まっていく。

 

「女を恐怖から救出する」

 

という方法は、古今東西、「女が男に惚れた瞬間」として描かれるわけだが、それは何も強盗を殴り倒すとか、セクハラ魔を吊るし上げるとか、そういう分かりやすい状況でなくとも機能するのだ。

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マスクを着けることの恥ずかしさと、マスクを着けないことの恥ずかしさ

 

──ここまで語ってきたのは、上記の二種類の「恥ずかしさ」である。そして、「マスク文化」が根付いている日本という国においては、前者の「マスクを着けることの恥ずかしさ」というものは、日常生活において、通常、感じられることはない。

 

なぜなら、日本においてはそれが「ふつう」であり、また「花粉症・風邪の予防」という“強力なタテマエ”に守られているために──もちろん、タテマエがタテマエとして成り立つためにはそれが「有りえそうなこと」でなくてはならなくて、実際にあり得ているひと(花粉症で鼻水がじゅるじゅる、風邪で咳がゴホゴホでるetc...)がいるからこそ、これは社会的なタテマエとして機能する。だから、あなたたちの存在を否定することはない──、「マスクを着ける」という「顔を隠す行為」からわれわれ人間がストレートに抱くイメージ(恥ずかしいのかな?)に日本ではある種の認識モザイクが掛けられており、そのイメージが社会の表側に浮かんでこない(無意識、もしくは暗黙の深層に沈められている)という事があるからだ。

 

このようにして「マスクを着ける恥ずかしさ」というものが抑制されているからこそ、「マスクを着けない恥ずかしさ(≒ ex. 顔を晒す恥ずかしさ)」に対して、人々はより素直に従って感情を喚起させ、それについて思考し、行動する。

 

マスクを着けるのである。

 

もし、これが「マスクを着けることはヘン!」と思われている海外の国であれば、このような行動はおそらく発生しない。それは、自分の「顔を隠したい」という感情をストレートに表現する行動──「マスクを着ける」ことが公然と、(タテマエ上)正当に、行うことができる日本だからこそ成り立つのだ。

 

「マスク文化」に慣れているわれわれ日本人も、いまだに黒マスクに対しては、なんなんだあいつ、怖いわ、きもっ、と思ってしまう。それは日々生活する中で白マスクというものが見慣れているからであって。海外ではわれわれ日本人の白マスクも同じように思われているのだ。

 

日本では、「ヘン」に思われないから、マスクで顔を隠して安心感を得るということが公然とできる。

 

そしてそれを「予防のため」という社会に浸透的なタテマエで誤魔化し、やがて次第に、自分は本当に予防のためにマスクをつけているのだと思い込み始める。

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Re:実際、『顔隠しによる安心感がほしい』というのが、日本人が年中マスクつけてる理由のうちの大半。


しかし日本という国は、ホンネとタテマエの乖離が激しすぎる文化で、個人個人がもはや、自分の本当のホンネ(感情)をみずからのアタマで認識することができなくなっている。

 

「これは風邪予防のためにやってんだ」

 

と、マスク愛好家は、意識下ではそう間違いなく思考しているのだ。そう思い込んだ方が自分にとって都合がいいから。

ここでいう都合がいい、というのは、恥ずかしくないということだ。

 

「マスクを着ける」のがじぶんの“恥ずかしさ” に対する意識的もしくは無意識的な対処行動だとするならば、それを着けることに対する“恥ずかしさ” (=顔を隠すという行為に対する恥ずかしさ)も、“対処” されていて然るべきだし、ココロは実際にそのような理由から、

 

「これは風邪予防のためにやってんだ」

 

という欺瞞(deception)を、防衛機制として発動させたのではないだろうか?

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ヒトは自分のしたいことや行動の理由、本当の感情を自ら認識できない。

 

研究者が「ここにある服、なんでも気に入ったものを着て、街に出かけていいぞ」と言うと、排卵期の女ほど、セクシーな服 (あらかじめ別の女集団に服がセクシーだと思う順にランクをつけてくださいといって女が感じるセクシー度合いでランク付けしてある)をより好んで着用して出かけた、というアメリカで行われた実験がある。

 

その女に「なんで今日はその服を着ようと思ったの?」と聞くと、なんか今日はそういう気分だったの、とかうーんべつにそんなに深い意味はないです、とか、何か起こりそうな気がして、とか、実験室から出れて開放的な気分になったのよ、とか、いろんなことを話した。


排卵期だったから」がその理由だなんて、誰一人認識していなかった。あるいは、男と遊びたかったとも答えなかった。上記で答えた回答は本当かと聞くと、誰もが間違いなく本当だと答えた。

 

このようなことは、アメリカの進化心理学者ダグラス・T・ケンリックとヴラダス・グリスケヴィシウスの主著『The Rational Animal(きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか)』で詳しく語られているが、ヒトの意思決定はつねに “至近の理由” と “進化上の理由” の2重構造になっている。

 

「ポルシェ実験」の例では、ポルシェを買うなど人間の誇示的消費欲求の深層にはつねに「メスを魅了したい」という無意識の動物的欲望が潜んでおり、当人がたとえどれだけ「ポルシェが欲しかったから買ったのだ。モテたくて、ではない」と否定しようとも──ポルシェを買ったのは自分の個性を出すためだ、ポルシェの雰囲気に惚れたからだ、ホロを開けて週末にドライブをするのが好きだからだ、迫力あるエンジン音が最高だからだ、などなど──、それは“至近の理由” に過ぎないと彼らは言う。

 

人間の意思決定においては、なんであれ動物的な“究極の理由(生存&生殖)”が潜んでおり、生物が自己複製機能を持ったタンパク質の塊である以上、それを否定することはできないのだ。

 

たとえば「地球の環境破壊はイケナイ」みたいなエコ運動に人生を捧げてる人がいるとしよう。彼らは、自身のアタマでは間違いなく「地球の環境破壊を止めたい」から「俺はこの活動に生涯を捧げているのだ」と、信じている。

 

しかし、深層心理──意識に登らない、動物的なホンネの部分というものが、人間のアタマの奥底にはある。

 

“ 自分はきちんと環境に気を使っている人間だ ”

“ 世の中のバカと違って俺は賢いんだ ”

“ みんなのことをちゃんと考えられる人間なんだ ”

 

・・・・・それを「アピール」したいという感情が、アタマの奥底にはあるかもしれない。自分では意識できないようなところに眠っているかもしれない。

 

なお、ダグラスとヴラドの二人は、「地位」への欲求を高められた心理状態の被験者はより“環境に配慮した”プリウスを、「異性獲得」への欲求を高められた心理状態の被験者はより“セクシー”なポルシェを、それぞれ愛車として手に入れたいと思う人の数が通常よりも大幅に増加することを証明している。

 

"人目につく環境配慮"という行動は、人びとが自ら意識している至近な理由:「わたしは善良でありたいし環境を助けたい」という利他的動機と、ある割合の人びとにとっては本当に“無意識”の究極の理由:(善良で環境保護派であることは地位の向上につながる)という利己的動機の二つに紐付けられているのだ。

 

偽善ではなく、本当に彼らがココロのそこから善かれ!と思っていること。そう彼らに思わせている生物学的な理由がなんであれ、現出している「善かれ!」はホンモノなのだ。

 

 

あなたはなぜ、毎日マスクを着けているか?

 

──そう聞かれて、たとえばそれを「対人恐怖」です、と答える人はいない。それを頭で認識している人もいない(否、いるだろうが)。

 

たとえば、「あなたは"恥ずかしいから"マスクを着けていますね?」

 

と聞かれて、「その通り」と無恥なまでに認めてしまうような人はおそらく、恥ずかしいからマスクを着けるなんてことにはならない。

 

彼らが「そう言うわけではない」と激しく否定するのは、それを否定したいという「恥」の感情こそ、「マスクをつける理由=風邪予防のため」というアタマのすり替え(欺瞞)を無意識に発動させた精神的要因ということもあって・・・

 

そう、人間はつねに、いまじぶんが行なっている思考や行動の “究極の理由” = “動物的な理由”を自覚していない。

 

俺がいま、この文章を書いているのも、知的好奇心や何かのテーマについて論じたいなどという高度な理性的嗜好からではなく、「自己顕示欲」「承認欲求」「闘争欲求」などなど、動物的なエモーションに喚起された「感情」からだ。

 

 

マスクを着ける理由──。

 

 

それを、このように深層心理から掘り下げようとすればするほど、彼らに頑なに"認めさせよう"とすればするほど、「そこまでして認めない彼ら」以上に、「そこまでして認めさせようとするわれわれ」の嗜虐性は際立ってきてくる。

 

「そこまでして認めさせたい」気持ちや思考、行動の理由となっているものは?

 

このようにカウンターを食らうと「恥ずかしい」ので、しっぺ返しを食らう前に、手打ちにするべきである。

 

 

人々がマスクを着けるのは、「花粉症気味だから」「風邪予防になるから」。

 

 

──それでいいのだ。

 

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