FIGHT CLUB

俺とオマエのFIGHT CLUB

男女のすれ違いの原因の99%は、『相手の気持ちになって思いやること』から起きる。

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こんなツイートを見た。

 

 

 

 

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これは俺の持論なんだが、

 

男女のすれ違いの原因の99%は、

『相手の気持ちになって思いやること』

から起きる。

 

男女で脳の思考構造が違う*1 のに、その前提を踏まえずに「相手を思いやる」からあらゆる“すれ違い”は発生する。

 

みんな優しい。シンパシーがある。

シンパシーがあるから、上手くいかない。

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“思いやり”とはどういう行為か?

──それは「相手の立場になって考えること」だ。

 

俺たちは、思いやりとはそういうものだと、幼稚園/保育園の時代から、ずーーっと親や先生に教えられてきた。

 

 

では、「相手の立場になって考える」とはどういう行為か?

──それは、あくまで自分のアタマの想像の内で、相手がいま現実に置かれている状況に「自分」を仮想的に置いてみて想像する、ということだ。

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いわば、「相手」と「自分」を頭の中ですり替えて考える行為。

 

そして、世の中に溢れる「男女のすれ違い」の99%は、このスリカエ行為が原因になって発生している。

 

 

*1 周知の事実だが、男女で脳の思考構造は違う。

“「女性は地図を読むのが苦手、男性はマルチタスクが苦手」──この古くさい先入観のような通説でも一理ありと思わせるほど、男女の脳内神経回路は異なっていると結論付けた研究結果が、2日の米科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)で発表された。

 米ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania)ペレルマン医学大学院(Perelman School of Medicine)の研究チームは、「コネクトーム」と呼ばれる脳内神経細胞の接続を示した回路図を精査する過去最大規模の研究を行った。

 脳内の神経線維の走行を画像化する拡散テンソル画像(DTI)という技術で8~22歳の949人(男性521人、女性428人)を調査したところ、男性脳内のある領域では、前後をつなぐ神経連絡がより多く、知覚とそれに協調した行動の連結性を容易にするような回路のつながりが示唆された。一方、女性では脳の左右の連結性が高く、分析能力と直感のつながりを容易にしていることが示唆された。

 この結果から、男性は平均して地図を理解するようなシングルタスクにより優れ、一方の女性は記憶や社会的認知スキルに優れるためマルチタスクやグループ内での問題解決などを得意とする傾向があると論文は述べている。

 また論文によると、13歳以下では男女の脳の神経回路に違いはあまりみられなかったが、14~17歳と17歳以上のグループでは明確な違いが見られたという。

 論文共著者の一人、ルーベン・グール(Ruben Gur)氏は「男女の脳がこれほど互いに補完的であることは驚きだ。詳細なコネクトームの解明は、男女の思考法の違いについての理解だけでなく、性別に関連した神経疾患の根源についての理解も深めるものだ」と述べている。”

 

 

また、今年になって東北大が「男脳」と「女脳」のスイッチを切り替える物質構造を発見、という面白い研究成果を出していた。

 

 

ここ数年は「男女で『脳の構造』は同じだ」という新説が、(脳構造を “見た目で” 判断したところ違いがなかった、ということだけを理由に)主張されはじめているみたいだけど、

 

・脳内のニューロンの接続性に見られる男女差 (脳内神経細胞のどことどこがつながるのを好むか、といういわば「思考の嗜好性」に男女で有意差がある)や、

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ヒトが有性生殖システムを採る以上当然ある 性ホルモンの男女差(思考に対して甚大な影響を与えるさまざまな性ホルモン値にオス/メスかで偏りがある)

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というような、生化学的な定説として存在する「思考の性差」にまで言及し、これをマトモなエビデンスに基づき否定できているものは全然見当たらない。

 

だから本稿では『脳の構造に性差が無い』=『脳の機能(思考)にも性差が無い』みたいな、巷に蔓延している暴論*2 はとりあえず無視して、「男女で、脳の思考構造って、やっぱ違うよね」というコンセンサスの元に話を進めていきたい。

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*2 < なんでこういう暴論が出てくるかっていうと、恐らく「男女で脳の思考構造に差がない」 ということにしておかないと困る人、嫌な人、ポリコレ的に問題があると感じる人が大勢いるんだろうな・・・と(お気持ちお察しします)

 

 

 

「思いやり」の害悪構造がココにある。

 

俺たちは、男女で脳🧠の思考構造が違うのに、

 

自分の脳みそ” を思考ツールにして、

(もし自分がされたらどうだろう・・)🤔🤔🤔

と、互いに「思い遣る」。

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この時、「相手の立場に立った自分の気持ち」を自分の頭で想像することで、

 

ほぼ無意識に「相手がして欲しいこと」「自分がして欲しいこと」にすり替えてしまう。

 

その思考(思いやり)は、脳の思考構造がほとんど変わらない同性同士であれば、素晴らしい思考プロセスにもなりうるんだろうけど、男女ほど思考構造が違う相手に対して、その思考プロセスを用いて行動を決定することは時に、とんでもない悪手になる。

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A・・(ドーナツが欲しいな。。)

B・・(Aは何が欲しいんだろう…?そうだ、“ おれがいまのAの状況だったら” 何が欲しいかな…?おれはプリンが欲しいな、よし、プリンにしよう。)

全く意味不明な思考プロセスだが、実際に世の中で幅広く行われている“思いやり”の実態

 

 

しかも、これが「恋人同士」でさかんに行われるからタチが悪い。

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──周知のように、世の中のカップルはみんな「お互いに共感」したい生き物だ。いわば、シンパシーで繋がる関係。

 

 

カップルにとって「分かり合う」とは「共感」だ。

同じ気持ちを共有すること。どういう計算式か知らんけど、そのシンパシーによって、 “幸せを2倍に、悲しさを半分こ” することが可能だ。

 

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そしてカップルは、シンパシー度合い(=通じ合ってる度合い)を愛情を図るモノサシにしている。

 

だから、カップルの不文律としてそのシンパシー関係を破壊することはできない不文律を守ること自体もシンパシー)し、

 

「ん?」と思ってもできうるかぎり相手にお互い合わせようと思う(「相手の好きな自分」になるために、単に“フリ”で演じるのではなく“変わろう” と思うこと、これも恋愛の麻薬の作用だ)わけで、

 

カップルのどちらかが、二人の関係に亀裂を入れることなく、あえて噛み合っているシンパシーをズラそうと思うなら、かなりの慎重さが求められる。

 

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“相手の意見を否定すること” 

を普段から飄々とやってのけるカップルもいるが、それはその

 

「ex. オマエその服似合ってねーぞ!!笑笑」

 

という否定こそが、愛情表現の一環として、コミュニケーションの「形式」に組み込まれている場合(いわば、ダメージジーンズみたいなもん)のみに限られ、コミュニケーションの「形式」自体に裂け目を入れて、カップルのシンパシーを破壊することとなると、やはり難しい。

 

そうやって日々、シンパシーを壊さないように「相手に周波数を合わせよう」とお互いがもがく中で、それぞれの「思いやり」は加速していく。

 

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しかし、前述したように、男女で脳の思考構造が違うために、自分の「思いやり」が相手に適合しない。

 

 

いくら「同じもの同士」を演じ、実際に“同じもの”に変わろうと互いが努力していても、

 

現実的には、男女の間には生物学的構造として決定的な超えられない壁があって、違うからだ。

 

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だから、「思いやり」という行為が「自分がされたらどう思うか、相手のキモチになって考えること」である以上、男女は永遠にすれ違う。

 

 

 

本当は、オトコもオンナも、相手を「別の生き物」 と思って接しないといけない。

 

──たとえ普段の暮らしの中で、なんでもない異性に対してそういうスタンスを取れているとしても、これが恋人同士となると、俺たちは途端に忘れてしまう。「同じもの同士」だと思ってしまう。

 

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カップルがそれぞれ、相手のことを「自分と同じ」だと思ってる (あるいはそう信じたい) 限り、違うもの同士として当然起こる価値観の相違に直面した時、「えっ、私たち分かり合えてない…😔」と “すれ違い”を感じてしまう。

 

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まあ、一度そういう事になると、「分かり合うために」話せば話すほど、これまでのシンパシーの欺瞞(あの時じつは… /俺だってほんとは…)が露呈する。

 

堅く信じていればいるほど、ちょっとした不信の芽が、オセロのようにすべてをひっくり返してしまう。

 

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──こうやって、世の中のカップルは破綻する。

 

 

 

男女がうまくいく方法とは??

 

それは、互いに相手のことを「脳の思考構造が違う生き物」だという前提から関係を築くことだ。

 

いわば、違うことを認める。

 

こんな陳腐なコトバ、文字面で書くのは超簡単だが、実際にやるのはとんでもなく難しい。特にカップル間においては。

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恋愛は、宇宙人との異文化コミュニケーションだ。

相手は自分とは脳の思考構造が全く違う。だから、自分の脳みそを使って考える「思いやり」という思考プロセスが全く役に立たない。

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何に価値を見出すかが全く違う。

いや、“ 価値を見出す ” という思考プロセス自体を疑わないといけない。そんなものはないかもしれない。

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たとえば、ヒトの脳の思考システムの特徴として因果律(なんらかの事象にはそれを引き起こした「原因」があり、時間軸的に「原因」は「結果」よりもかならず前に存在している、という考え方のフレームがあると言われるが、

宇宙人と会話しようと思うなら、究極そういうところまで取っ払って考えなくちゃいけない。

 

脳の思考構造が違う相手を自分の脳をつかって “理解” することは、それ程までに難しいということ。

 

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だから俺は、女の子について、この男の脳みそを使って “理解ろう” とするのは「もう無理だな」と思って、理解を放棄することにしている。

 

脳科学のセンセイやら心理学のセンセイが書いた本を漁り、一般的な「女脳」の考え方について一通り頭に入れたら、あとはその女脳テンプレをキホンに「こういうのが嬉しいんでしょ」と “当てはめ” で対応しつつ、相手をしっかり観察することを忘れずに個人差に合わせて、それぞれ女の子別にテンプレに改変を加えていく。

 

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そしてこれが存外、うまくいく。

──少なくとも、男の脳みそをつかって、相手の気持ちを頑張って “思いやって” いた頃より、はるかに。

 

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「理解を放棄」とはヒドイ奴だなと言われるかもしれないけど、脳科学的には男女で「理解」の“定義”が食い違っている可能性はかなり高い(しかも実際食い違っているとしても「経験」して確かめる手段は到底ない)というのが現実で、

 

そうなるとこの男の脳みそで「理解ろう」とすればするほど、ほんとうの“理解”からは遠ざかっていく(ドツボにはまっていく)ようなことにもなりうる。

 

男にとっての「相手を理解する」が相手の感情や行動の合理的な理由を見つけ出してそれをシステム的にスッキリ腑に落ちる形で捉える、であるとしたら、

 

女にとっての「相手を理解する」はそんな唯物的なものではなく、ただただ、人格に優しく寄り添い、ゆっくり話を聞いて、シンパシーを用いて相手に共感し、感情を共有すること、かもしれない。

 

“実際どうなんだろう?”

 

そんなこと、この世界に男でも女でもない奴がいない以上、「男の思考」と「女の思考」を三者目線で客観視できる存在はいないわけで、

──つまり、世界には男か女かしかいないんだから(LGBTは脇に置いといて)、どちらかの主観思考しか世界には存在しないわけで、ほんとうのところ分かりっこないわけで。

 

 

だから俺は、「理解」を捨て、テンプレ思考で対応することを勧めたい。

 

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ビジネス等だと「この人はここにこういう価値を感じるのか」と相手のNeedsとWantsを満たせるように動けるのに、

 

話が恋愛になると途端に “相手のことを思いやって”「自分がされたら嬉しいこと」を相手にやるようになる。

 

そして、その齟齬を“すれ違い”と呼んで

「別れのサインだ」と忌避する。

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EX.

 

女は、男脳が「全部ちゃんと言葉で言ってほしい」である事はテンプレとして分かっているはずなのに、

自分がして欲しいことが「察してほしい」であるからと言って、

その女脳で考えた「思いやり」を相手にも適用して、ただ、期待する。

 

愛してるなら、絶対に、思いやってくれるはず!!

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そうやって、

気づいて…。。私を見て…。。ねぇ…、愛してくれてる貴方ならわかるでしょ…、ねぇ、気づいて…!

と、

「言葉に出さずともわかってくれること=思いやり=愛情」という、

自分の脳みその愛情公式を相手にも当てはめようとする。

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こうしてモヤモヤを一人で抱え込み、

 

「何でこの人は察してくれないの」

 

=自分がされたらどう思うか、私の気持ちになって思いやってくれてないのかな。。愛も萎んじゃったのかな。。

 

と、ひとりで勝手に傷つく。

 

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それでもさらにひたすら「気づいてもらおう」「察してもらおう」と、

きっとあの人は私を愛してるから気づいてくれる、察してくれる、信じて待ち続けよう…!

と愛を試すような態度をつづけ、

それがいつまでも為されないがためにどんどんドツボにハマっていく。

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相手を愛しているからこそ、あえて「口に出さない」という “気遣い” (=思いやり)の結果、一人で悶々と抱え込み、

愛している相手に対して、

そして愛されたい相手に対して、

「愛してくれない」と思い込んで、

次第に恨みを募らせ、やがて愛せなくなる。

 

 

──そんなの、本当は、いちばん最悪なことなのに。

 

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男は、女脳の「察してほしい」をテンプレ的には重々承知しているはずのに、

自分がして欲しいことが「全部言葉で話して欲しい」であるからと言って、
その男脳で考えた「思いやり」を相手にも適用して、ただ、信用する。

 

愛してるなら、絶対に、ぜんぶ話して、打ち明けてくれるはず。

 

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そうやって、

( 俺達は信用し合い分かり合っているから、俺も言いたいことは何でも伝えるし、あの子も気持ちや悩みがあったら全部打ち明けてくれるはずだ

と、

「何でも気兼ねなく言葉で伝え合ってわかり合えること=信頼=愛情」という、自分の脳みその愛情公式を相手にも当てはめようとする。

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普段から、「何でも話してね」「気遣い無用だよ」と繰り返し言っているし、相手もそれは分かってくれてる。どんな些細な気持ちでも、困ってたり、悩んでたら、隠さずに俺に伝えてくれるだろう

というふうに相手を信頼し、

 

「さいきん悩みとかない?」「ううん、別になにもないよ(笑)」という言葉だけのやりとりを何度も繰り返すうちに、

 

「うん、大丈夫だな」

 

と、鈍感さは増していき、相手のニコニコした笑顔の背後に悶々と溜め込まれてる不満にいつまでたっても気づかない。

 

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あるいは、相手の何か抱え込んでいるような感じにうっすら気づいていたとしても、「言ってね」と言っているのに「言ってくれない」ということに対して、

もしかしたら、自分に対しては「言えない」「言いたくない」ようなことなのかな。。

というように邪推して、踏み込むことに億劫になったり、

「いや、そんなはずはない、俺の勘違いだ(そうであってほしい)」

と目を背けるようになる。

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そしてとうとう喧嘩になって、

後からその気持ちを知ると、

 

自分が相手を察せなかったことや、「なにかあったら言ってね」の一言を日頃から繰り返すことがむしろ相手に無言の重圧を与えていたこと等々、それら自責点は棚に上げて、

 

「何で言ってくれなかったの。。」

「だから言ってねって言ってたのに。。」

「そんなに俺って気持ちを伝えにくい相手なの?」

「そんなに俺って信用ないの?」

「気づくかどうか、ずっと “愛を試されてた” の?」

「俺は何でも言える間柄だと、ずっと信じていたんだけどな」

「これまでのやり取りはぜんぶ表面上のタテマエか。。」

「・・・もっと信用して欲しかった」

 

と、一人勝手に不信感を抱く。

 

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相手を愛しているからこそ、「何でも、お互い思うことや悩みがあったら、ぜんぶ話して共有しようね」という “気遣い” (=思いやり)を徹底した結果、相手の気丈なタテマエが見抜けなくなり、


自分が信用している相手に対して、
そして信用されたい相手に対して、


「全然信じてくれて無かったのか」

「俺は信じていたのに、もう分かんなくなっちゃった」

 

と勝手に落ち込んで、

 

愛していた相手によるホンネの秘匿と、タテマエの欺瞞が露呈したこと(そういう勝手な実感)に不信感を募らせ、やがて愛せなくなる。

 


──そんなの、本当は、いちばん最悪なことなのに。

 

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ただ、哀しい。

 

そんなことを思った次第で。

 

 

おそらく、相手がイヌ/ネコだったら、こんなことは起こらないんじゃないかなと思う。

 

それは多分、「思いやり」= 相手の状況に自分を当てはめて、「自分だったらどう思うか?」を想像する

ということが、恐らくないから。

 

だって、「脳の思考構造が異なる違う動物だ」という前提から関係を築くから。

 

はじめから「違うこと」を認めているからこそ、「自分のして欲しいこと」と「相手のして欲しいこと」を無意識にすり替えてしまうという事態が起こり得ず、関係はずっと上手くいくんだろう。

 

イヌを飼う人は、“イヌがされると嬉しいこと” のテンプレに沿って飼育するし、個体別の好みなどに合わせて、テンプレに改変を加えつつ、上手くやっている。それは、ネコを飼う人だってたぶん同じだ。

 

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もちろん人間を動物なんかに例えたら、抗議は来るんだろうけども。

 

 

でも、人間関係の本質も、きっとそれと変わらないと思っている。

 

男女関係には、「取扱説明書」みたいなテンプレがなくて、みんな、自分の脳みそで考えたことを相手に当てはめること(=思いやり)しかできないから、当然かみ合わない。

 

しかし、カップなどは「同じであること」を二人の矜持にしている以上、“理解りあっている関係” を演じつづけなきゃならなくて、そのシンパシーを崩すことができなくて、苦しんでいる。

 

 ”違うこと" が認められない。
認められないから、分かりあえない。

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テンプレ思考は、「オマエのこと理解できねーわ!」と、

自分と相手が違うことを認めるところから始まる。

 

イヌやネコに対して、俺たちははじめから、無意識に理解を投げている。投げているから、「イヌはこういうものだ」「ネコはこういうものだ」という実態に即したテンプレ思考が導入できる。

 

たとえテンプレであろうと、

「イヌは首の下をワシャワシャされるのが好き」

ということをふむふむと学んで実践し、

その結果、飼っているイヌはものすごく喜んでいる、それの何がダメなの、と。

 

「そんなの偽物だ!」と誰かに言われても、イヌは「愛されているワン」と、ものすごく嬉しそうな顔をしているし、その表情はきっとホンモノだ。

 

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結局、「思いやり」とは、パートナーの虚影を自分の脳内ビジョンに映して、その虚影が喜ぶようなことを自分の脳みそを使って想像(※この時に「自分がされて嬉しいこと」が無意識に投影される)し、その妄想を吐き出す行為でしかない。

 

・相手が「してほしい」事をやる。

・理解できない!とか喚いて拒絶しない。

 

たったこの二つだけなのに、

相手を深く愛せば愛すほど相手の気持ちを考えれば考えるほど思いやれば思いやるほど、俺たちはそれができなくなってしまう。

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ほんとうに、“違いを認め合う”ってことは、一体どれだけ難しいか。

 

文字にすると陳腐でありふれた言葉だろうけど、現実の世の中では全然ありふれたもんではなくて、この真逆ばかりが世の中には蔓延っている。

 

誰かを愛すれば愛するほど、

 

「同じでありたい」

 

っていう気持ちが湧いてくる。

 

その邪念が、俺達の目を曇らせ、“ 違うこと ” をすぐに見失わせてしまう。

 

“抱いたはずが突き飛ばして
包むはずが切り刻んで
撫でるつもりが引っ掻いて
また愛 求める

解り合えたふりしたって
僕らは違った個体で
だけどひとつになりたくて
暗闇で もがいている

「君は君で 僕は僕」そんな当たり前のこと
何でこんなにも簡単に 僕ら
見失ってしまえるんだろう? ”

 

違いを認めるとは、結局、

「あいつはあーいう奴だから(笑)」という、一見理解できないから突き放しているようで、そのまま( just the way you are )であることを優しく受容する態度なんじゃねーかなと思う。

 

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愛とは、その性質上、

・相手を自分と同じところに縛り付けたいという欲望に突き動かされたり、

・“そのまま” の相手から目を逸らして、アタマのなかで理想化した幻想を抱いてしまいがちになったり

 ・相手の期待に応えられるようにガンバりすぎてしまったり

・=愛してくれたことに対して精一杯 “報いること” が務めだという強迫観念に囚われがちになってしまったり

・そして究極、二人が一つになって融け合うこと、「同じになること」を目指してしまいがち

なものだとは思うんだけれども、

 

それでもやはり、俺は、

「オレはオレだし、オマエはオマエ」と互いに違うことを認め合い、その上で相手の好きなこと、嫌いなことを互いに尊重し、相手が内に抱える “異文化” について、「ワカラナイ!」と跳ね除けるでも、目を瞑るでもなく、ただただ興味を持っていられるような関係がイイと思う。

簡単に「同じ」になってしまうのではなく、あえて二つのままでいること、そこに価値を見出していたい。

 

 

I'm free, to be whatever I choose

and I'll sing the blues if l want

俺は何でも自由に  選んだものになれる

気が向いたらブルースでも歌うさ

 

I'm free, to say whatever I like

if it's wrong or right  it's alriht

俺は何でも自由に 好きなことが言える

それが間違っていても正しくても構わない

 

Free, to be whatever you say

if it comes my way  it's alright

オマエは何でも自由に 言ったものになれる

それが俺のものになるんなら好都合だ

 

You're free, to be wherever you please

you can shoot the breeze if you want

オマエはどこでも自由に 行きたいとこにいける

何ならそこで無駄話をしたって構わない

 

Whatever you do

Whatever you say

Yeah, I know it's alright

オマエが何をしても

オマエが何を言っても

そう 全然オレには構わない

 

持論だが、愛の本質は、きっと「自由」だ。

 

恋人とは「この人と一緒にいたら、俺/私は何でもできる気がする」という、自由を感じられる相手ではないだろうか。二人で一緒にいたら、“自由”になれる相手。

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•「気があうこと」がそうかも知れない。

•「ラクなこと」がそうかも知れない。

•「美人/イケメンな顔を見つめていたら、不可能が無い気分になること」がそうかも知れない。

•「デカイ夢があること」がそうかも知れない。

•「めちゃくちゃカネがあること」がそうかも知れない。

•「 “此処ではないどこか ”に連れていってくれそうなこと」がそうかも知れない。
•「いろんな喜怒哀楽を分かち合えること」がそうかもしれない。

•「一緒にいてくれることで、なにかに挑む勇気が湧いてくること」がそうかも知れない。

 

 

人は、一緒にいたら、自由を感じられる相手を好きになる気がする。

 

 

自分で “不自由だ” と思っていたところ(欠点)を全然気にしなかったり、良いところ(長所)を見つけて褒めてくれたり、そうやって、自由を感じさせてくれること。

 

一緒に飛べば、どこまでも自由にいけるような、そんな力が湧いてくること。

 

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翻って『誰かに好かれたい』と思うなら、

 

“自由を感じさせてあげること” がすべてのカギになる気がしている。(*ドMはどうか?──彼女たちは彼氏に拘束支配されることで、不自由性の中に倒錯的に「自由」を見出し、それに対して快感を覚えている。単なる言葉のレトリックじゃなく、マゾヒズム論において真剣に語られている定説だ) 

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そして、“自由” を感じられなくなった時、その恋は終わりを迎えるんじゃないだろうか。 

 

ex.拘束がしんどい、この人といても私は。。、一緒にいると窮屈に感じる、自分のしたいことが伸び伸びとできない、どこかに連れて行ってくれるような感じがなく先が行き止まりに思える、相手の「好き」が重い (不自由感)、他の男を好きになったため彼氏が足かせに感じる、一緒にいると自分が何にもなれないような惨めな気分になる

  

 

■幸せは自由、不幸は不自由

 

俺のなかで、「不幸とは不自由のことであり、幸福とは自由のことである」という実感は確かにあって、他人にそういう幸福をもたらせるヤツは、やっぱりモテる気がする。

(だから俺は“自由”を意識して女の子を口説く。“ここではないどこかへ連れ出してくれそうな感じ” をなんとなく醸し出している男はモテるが、それは自由という幸福をもたらしてくれそうだからではないかと思う)

 

自由になって不幸になってしまう人は、すべての縛りから解き放たれることで、自らの不自由性(無力感)をむしろ強く実感してしまうからだろう。不幸なのは「自由だから」ではなく「不自由だから」だ。

不自由である方が幸福だ」と言う人は、広く世界を見渡すのではなく、見える世界を身近な場所(手の届く範囲)に限定した方が、その範囲内においては「自分が自由である」という欺瞞的実感を得ることが容易く、幸せになりやすい、ということが言いたいんだろう。その幸福は「不自由」によるものではなく「自由」の実感がもたらしたものだ。

 

 

 

 “ Love does not dominate; It cultivates. ”

愛は支配しない。それは土を耕すものだ (ゲーテ

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愛は、相手を支配したり、コントロールすることではない。

ただただ、相手が 自由に 生きていけるように土壌を耕すことだ。

 

土壌とは、人間がすっくと足をつけて、しかと根を張って、伸び伸びと育ち、自由に生きていくための土台だ。

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さらにいえば、男にとっての「土壌」とは、愛する人子宮であり、さらには家庭であり、そこからやがて芽吹き、育つものが、子どもかもしれない。

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「愛とは相手が自由に生きていけるようにひたすら土壌を耕していくこと。」

 

これに照らして、「思いやり」はどうだろうか?

 

──もし、あなたの「思いやり」が、

 

・ありのままの相手の姿 (男であるとか女であるとかの、生物的な仕組みの違いについてもそうだ) を否定したり、

 

・自分の感情 (「愛してるから同じでありたい」とか、「私なら愛する人にはこうするから、あの人もきっとこうしてくれるはずだ」とか) を押し付けたり

 

などして

 

・相手に “不自由さ” を感じさせている

 

ようであれば、それはあまりイイものとは言えないだろう。

 

 

■「好き」とか「愛してる」とかいった気持ちは、人を自由にもするし、不自由にもさせてしまう。

ーーこの事について、皆あまりにも鈍感だ。

 

・たとえば、好意の暴走(ex. 非モテ異性の強引な好意の押し付け)は、人に不自由を感じさせる。そのことが「嫌い!」という反発につながる。

・一方で、人に自由を感じさせる好意もある。愛している人から、「好き」と言われた時、人間は天にも登るような心地になって、自由の翼を授かった気持ちになる。

 

 

 

 

さて、あなたの「思いやり」が生み出しているものはどちらだろうか?

自由か、不自由か。

 

 

 

日本には「愛を育む」という言葉がある。これは、本当に「愛」のすがたをよく言い表した言葉だろうと思う。

 

種をまいて、芽吹いて、育っていけるように、日々水をやって、光で照らして。

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ただただ、相手がのびのびと育っていける、生き生きと毎日を過ごしていける、

そういう 自由” を感じられる土壌を、日々、作っていけたら。

 

 

そんなことを思う。

 

 

 

 

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──「オマエはオマエのままでいい」

  

 

 

 

 

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